2014年11月11日火曜日

幸福の科学の宗教行事は金銭感覚の麻痺を引き起こす

私が以前行っていた支部では、会員向けに支部メールが送られていました。

その中では、「○○さんが未来大繁栄植福を一口御奉納され、未来大繁栄信者となられました!」とかいった情報が流れていました。

植福とはお布施のことで、この「一口」とは5万円とか10万円とかいったレベルだったと思います(未来大繁栄植福はいくらだったのかは忘れました)。

このようなイベントは毎年、毎月、繰り返されます。たぶん、他の支部でも似たようなメールが会員の間を回っていると思います。


毎回10万円単位で植福しているのは支部に来ている一部の会員で、さらにその中の一部のリーダー会員は100万円単位の植福をしています。

例えば、昨年のメールを見ると「100万円以上の植福を幸福の科学大学にした会員は、大学の正門前に立つ2本のオベリスク(記念碑)に名前が刻まれます」と呼びかけています。

その結果、私の支部では6名程度の人が植福したようです。


このような植福は強制ではありませんが、幸福の科学の行事に参加すると色々なプレッシャーがかかってきます。

例えば、「大学成功の集い」が開催され、多くの会員が集まってきます。あまり気乗りしない信者でも、誘われると断ることができないような人は参加します。

その集会では、会員同士で円陣を組んで座り、他の人の「決意」を聞きます。


そうすると、「あの○○さんが100万円の植福を決意したのだから、私も10万円くらいはしなきゃ悪いかな・・・?」という感じになってくるのです。

もちろん「私はお金が無いからできない」という信者もいますが、そのような人はあまり支部にも来ませんし、集会にも出ません。

人間関係を円滑にするためには、ある程度周りの会員さんと同じ行動をしなければならない、という考えを持つ「いい人」が、このようなイベントに巻き込まれてゆくのです。


そして最後は「億菩薩誓願」というものをしたりします。これは「私は億円単位の植福をします」という決意を仏像の前、他の人の前で行うのです。

「誓願」というのは「誓い」あるいは「願い」という意味なので、本当に植福しなくても良いし、できなくてもだれも責めないのですが、みんなの前で誓った本人の中では、だんだん「お布施させて頂きたい」という気持ちが大きくなってゆきます。


そして、その誓願した人たちのうち、一部の人が100万円単位の植福をすることになるのです。彼らは「100万円はまだまだ少ない、1億円できるまでがんばるぞ」と考えているのです。「Think Big !」という言葉が、彼らの心を煽っているのです。

あるメールでは、以下のようなことが書いてありました(実名は伏せ字にしてあります)。

◎◎さんのイイシラセ♪
当初、一口も出来ないと御自身で考えられていた◎◎さんに一つの奇跡が起こりました♪
先日の暴風雨で転倒され、骨にヒビが入る大怪我をされたそうなのですが、怪我に対しての保険が降りたそうで、なんとその金額がちょうど一口分だったとのこと♪
それは偶然ではなく、◎◎さんは毎日のお祈りの中で、明るく積極的で建設的な思いを言葉に出され、なりたい自分を強くイメージングされて、富の法を実践されていらっしゃいました♪
今回は本当に思いもよらないところからだっ たそうで、まさに怪我の功名?らしく、ただでは転ばないと仰られておりました♪
◎◎さんの主のお役に立ちたいという強い思いによる信仰心、また日々のたゆまぬコツコツとした努力に対して、天上界から投げかけられた光が形となって現れた奇跡だと、お話をお聞きしながら感じさせていただきました♪
◎◎さんの信仰心に、心より祝福申し上げます♪

要約すると、◎◎さんが転倒して怪我をし、その保険金をケガの治療に使わずに植福に回した、という話なのですが、私はこれのどこが奇跡なのか、わかりません。私は当時信者だったのですが、それでも軽く退きました。文面は表面上明るいかもしれませんが、その内容は人の不幸を喜ぶかのような冷たさが漂う文章だと思います。

この骨にヒビが入るくらいの大怪我は治療しないのでしょうか?しかも、10万円か100万円かはわかりませんが、そのお金を失っているのです。そのようなことを繰り返せば、やがて老後の蓄えを失うと思います。

この方は私も知っていますが、決して若くありません。いったい、将来どうなるのでしょうか?おそらく、幸福の科学はこの方がお金が無くなるか体を壊して支部に来れなくなったら、そのまま放って置くことになると思います。「あの人最近来なくなったね」と言われて終わりでしょう。なぜなら信者は今だけは「心から祝福」していても、次々とイベントをこなさなければならないため、1年もすれば昔の功労者など忘れ去ってしまうからです。

もちろんこれを読んだ信者の方は「植福をすれば天国に還ることができる」と説明するのでしょうけれど、その世間とは大きくかけ離れた感覚が、自分も知らないうちに他人を不幸にしているということを自覚してほしいです。

4 件のコメント:

  1. 幸福の科学で学んだ成功法則使って、稼げたお金の中から数%さし出すというのが、正しい手順。
    それ以外の、無理して捻り出したような植福は、本来、支部長も受け取るべきじゃないと思う。
    この「無理して捻り出されたお布施」が、お布施全体でどれくらいの割合になることか。これが呪いになって返ってきてるんだろうな。見栄を張って、インプット以上のアウトプットをしようとするから、信仰心まで失ってしまう。


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  2. 匿名さん、こんにちは。

    「稼いだお金の数%をさし出すのが正しい手順」ということですが、総裁先生はそのような話をしておりましたか?
    私は聞いたことが無いのですが、法話の数が膨大なので、どこかでそんな話もされたかもしれませんね。
    にもかかわらず、支部や植福大会などでは、信者さんに植福=信仰心の表れであると教え、短い期間内に巨額の植福目標達成を求めていますよね。

    匿名さんは、信者さんが見栄を張るから無理をすることになるのだ、とおっしゃいますが、
    そのような見方からは「お布施で破滅するのは本人の責任である」という愛の欠けた考えが見え隠れします。
    信仰に忠実であろうとする信者さんに無理をさせたのは支部長や周りのリーダー信者達じゃないのですか。

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    1. >愛の欠けた考えが見え隠れします。

      あれだ。なんかの書籍で「啐啄同時」って教えがあったでしょ。これ間違いを犯す時にも言えると思うの。教団もお金がないから無理をさせてしまうし、信者のほうも見栄が膨らんで正常な判断が出来てない。殻の外と中から同時に突ついて、やらかしてしまう。でもべつに、閉じ込められたり、強制されたり、脅迫されたりしてない以上、やはり責任は折半。冷たいといえば冷たいけれど、文章の趣旨は「無理スンナ、植福は本当に成功してからでいいんだ」ということだから、自分としては愛だと思うけれど、どうでしょ。

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    2. 返信ありがとうございます。
      わかります、無理するなよ、と言いたい気持ちなのですよね。

      会員では無い一般の人が幸福の科学を外から見れば「強制はしていないのだから責任は折半」ということになると思います。これは「どちらも悪い。」ということですね。
      私も、他の宗教信者の同じような行動を見たら、そういう気持ちを持つと思います。

      ですが、同じ会に所属して活動している仲間が、そのような考え方をしていたとしたらどうでしょうか。

      私も信者をしていたときは稼いだお金の数%しか出していませんでした。
      しかし総合本部からは毎年、巨額の植福目標が支部に降ろされます。
      それをなんとか達成するために、真面目な人や役職がある人は、責任感から自分を犠牲にしてゆきます。

      一度に100万、200万と植福し、そのような大金を出すまでに至ったドラマを、みんなの前で涙ながらに語る信者に対して、私は心のどこかで「そんなに見栄を張らなくても、無理しなくてもいいのにな」と思っていました。ですが私は、そのような気持ちを表に出すことはできず、その人に対して「おめでとうございます」とか「素晴らしい信仰心ですね」という言葉だけをかけていたのです。

      支部長も、その人の周りにいる「法友」たちも、その会員さんが決して裕福な暮らしをしているわけではないことはわかっているのです。

      それなのに、「根本仏・主エル・カンターレの智慧を具現化する大宇宙の奇跡・幸福の科学大学創設に貢献してオベリスクに名前を刻まれるということは、魂の永遠の勲章として光輝くことでしょう。」といった非常に回りくどい言葉で植福を求めることはあっても、「生活費のほうは大丈夫ですか?」とか「来年はお子さんが受験でしょう。学費はどうされるのですか?」と心配してくれたり、「無理しなくても良いですよ。」という暖かい言葉をかける人は、私を含めて誰もいなかったです。

      ですから私は、自分と同じ仲間に対して「強制はしていないのだから責任は折半」と言うのは、どちらかというと冷たい言葉であると思うんです。それは本当の友達に対してかける言葉では無く、どこか他人事のような響きを持つからです。私の前のコメントには、そういう過去の私に対する反省がこもっています。

      これからもブログを書いていくので、またコメントしたくなったらよろしくお願いします。

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