2017年5月7日日曜日

感謝の心はそんなに大切なのか

 どんなに辛い現実でも「主よ、私にこのような尊い経験を与えて下さってありがとうございます。」と祈ることによって、乗り越えられることはあります。それは自動車のエアバックのように心が折れるのを防いでくれるのです。

 そんなとき、幸福の科学に「出会った」人は「主への感謝の心」を大切にするよう教え込まれます。それはあらゆる機会に行われるのです。

 朝晩の祈りでもそうですし、行事の始めと終わり、発表の前と後にも行われます。

 こうして四六時中「主への感謝」をすること、「霊的な自分」を追い求めることによって現実からどんどん、どんどん離れていって、現実が見えなくなっていくのです。

 私は長い長い間「主への感謝の心を忘れたとき慢心・堕落が始まるのだ」と思っていました。

 それは、いろいろなことがあり会から距離を置くようになってからもしばらく続いていたのです。

 ところが次第に「良い出来事があれば主に感謝し、悪い出来事は自分の責任として捉えるべき」というのはおかしくないだろうか?と考えるようになっていきました。

 あるとき、毎月行われる○○祈願や○○研修に万単位でお金を払っているが、以前とあまり変わりばえしない自分自身や支部のメンバーを振り返ってみたとき、こう思ったのです。

 「良いことも悪いことも自分に関係する出来事なのであって、幸福の科学は全然関係ないんじゃないだろうか?」

 何か自分が成功したら、その協力者に感謝するべきであって、どうして大川隆法に感謝しなければならないのでしょうか。

 ましてや、失敗したとき、あまり良くないことが起きたときでさえも、どうして大川に感謝しなければならないのでしょうか。

 以前、「経営診断」だったかな、そんな名前の100万円程度の高額布施の精舎研修だったか祈願だったかがあって、これを受けると「主から試練が与えられる」という評判がありました。

 ある会員さんは医者の仕事をしていたが、この研修を思い切って受けたところ、しばらくして舌のガンが見つかった。

 大変な思いをする中、医師として病気の辛さがわかるようになり、患者さんに優しく接することができるようになった。主よ、ありがとうございます・・・などというエピソードが支部から伝わってきたこともありました。

 もちろん、そのような大変な経験をすることは悪いことではないですが、そのような人生経験は全てその人のものであって、大川隆法は全く関係ないし、高額のお金を払う義務も責任もありませんし、ましてや感謝しなければならない義理は全くないのです。

 「神様」から見れば美しい「感謝の心」も、現実を見れば「奴隷の心」でしかないのです。

 私が行っていた支部の会員さんで高齢の方がいらっしゃったのですが、彼がこの研修を受けたところ、支部に来なくなってしまいました。

 その後わかったことは、彼が病気になって入院し、最後は亡くなっていたということでした。

 この事実を、支部では「主に引き上げられた」と表現し、「彼の娘さんがこのことをきっかけに入会した」と言って皆の前で祝福の言葉を述べていたのです。

 私はこれらのいろいろな話を聞いて、「私はこのような宗教的な人生を受け入れることができるだろうか」などと思ったのですが、やがて「難しいな」という思いに徐々に変わっていきました。

 あれからずいぶん時間が経った今は「異常な考え方をする人たちだったな」と思っています。

 幸福の科学に批判的な人の中には、幸福の科学に「没落の法則」があり、幸福の科学に関わった人が不幸になっていく、と述べる方もいますが、私はそのような「法則」があるとは思えません。

 先ほど述べた医者がガンになったことや高齢の会員さんが亡くなったことは、研修や祈願とは無関係に起きた、一般の人にも等しく起こりうる出来事にしか過ぎない。そう考えるのが普通だと思います。

 いくらたくさんの例を挙げたとしても、個人の幸不幸と幸福の科学との関連性は全くないのです。全ては無関係な出来事を神様と関連づけて理解することで困難な現実を乗り切ろうとする、人間の精神的な営みから発しているのだと思うのです。

 そう考えなければ、会員は幸福の科学をやめることはできないと思います。会員は不幸を試練と捉えてがんばりつづけるし、批判を受ければ受けるほど、自分の人生を犠牲にして幸福の科学に奉仕し続けるようになるでしょう。

 「不幸になったことを試練ととらえて神に感謝します」なんて聞けば、人は「凡人にはなかなかできないことだ」と評価してくれるかもしれません。

ですが、そのような考え方をする人に対して「自分もそうなりたい」とか、「友達になりたい」とまでは思わないのが普通の人間です。

 ですから、もし会員のあなたがそう思えるのであるならば、それは「異常」な考え方の持ち主であるということに気がついて下さい。

現実を見たくない心

 皆様こんにちは。またかなり時間が経ってしまいましたが、ブログを辞めたわけではありません。それにしても子育てがこんなに忙しいものだとは思わなかったです。

 さて、今日は少し余裕が出てきたので、幸福の科学について思うことを述べていきたいと思います。

本当の入会のきっかけ


 今では親や兄弟・友達や知り合いが幸福の科学の会員で、彼らの影響を受けて会員となった人が多いのかもしれません。人間は身近な人が笑顔でやっていることを悪いこととは思えないものです。

 私の場合も友達に勧められたこと・近所の会員が親切だったことが入会のきっかけだと前回書きましたが、それはあくまでも会員時代に他の人にしていた表向きの理由というか、一般人向けの説明です。

 会員は「仲間を増やしたい」と常に思っていますから、さわやかな印象を相手に与えるよう、常に配慮しています。

 そのような日々を24時間続けていると、自分自身に対しても体裁を取り繕うようになっていくのです。

 私の場合、入会の本当の理由は「失恋」と「孤独感」だったと思います。

 私は当時18歳、大学に入学して初めての一人暮らしに加えて、友達もあまり作れない状況の中、初めての恋愛と失恋をしました。

 私にとっては「どうしようもない現実」があったように思います。

 失恋など、今から考えれば「どうしようもなくはない」し、本質的には時間が解決する問題でした。

 このことが幸いして、私は幸福の科学を辞めることができたのだと思っています。

 なぜなら、結婚して孤独感がなくなって初めて、自分が自分で自分を騙していたこと、自分が幸福の科学に入会している理由を一生懸命正当化していたことに気づいたからです。

自分の中の問題だったのです。

 それでも入会から脱会まで約20年という時間がかかりました。

 それほどまでの長い時間、私は現実から目を背けていたし、現実を見たくなかった。

 現実をそのまま受け止めるのではなく、「自分は天使として使命を持って生まれたのだ」というような、非現実的な(これを「霊的な」と呼んでいました)受け止め方をしていたのです。

 私の孤独感の原因はコミュニケーション能力が不足していたからです。

 だから、恋愛もうまくいかない。ただそれだけのことに気がつけば良いだけなのに、私はそれを解釈で乗り切ろうとしていたのです。

 「私と縁がある魂は一般の人の中にはあまりいない。会員の中にこそ深い縁がある人がいるはずだ」とか、「一般の人からどのように思われてもかまわない、どうせ次元の違う世界から生まれてきた人たちなのだから」などと本気で思っていました。

 そして「心が変われば世界も変わる」というキャッチフレーズや「相手の心をなんとかするのではなく自分の心を変えるべき」という教えによって、ひたすら自分の「思い」を変えるよう努力していたのです。

 自分の思いを変えるというのは、すなわち現実をそのまま受け止めるのではなく現実の受け止め方を変えることにつながっていきました。

 辛い過去や現実はどうすることもできないが、それに対する解釈を”霊的に”変えることで今を幸福にできるのだというのが、私の考え方でした。