信者の方は、「主エル・カンターレはすべての人類の魂を造られた、魂の親である。したがって、すべての魂は主の慈悲によって生かされている。私たち信仰者はその主の慈悲への報恩として、お布施をさせて頂いているのだ。これは尊い機会であり、感謝すべきことなのだ」と考えていることと思います。
こういう文章を読むと、信者さんにはあるイメージが湧くのです。精舎で見たイメージビデオの映像が、目の前にパーッと展開していきます。
私の場合は、こんな感じです。天上界の主エル・カンターレから流れてくる圧倒的な光の霊流。その光が、地上にある一人一人の人間の魂に入っていき、人々が生かされ、幸福に暮らすことができる。私たちが感謝の心でお布施すると、その感謝が光の玉となって、主へと戻って行く。主はそれを見られて慈愛の眼差しで私達を見つめ、祝福してくださる…
この、白昼夢のようなイメージを現実として捉えることが、信者さんたちの「霊界はある、あの世はある」という確信を裏付ける理由となっています。これは一種の自己暗示なのです。
さて、よく考えてみると、信者さんと総裁の間には親子関係とよく似たものがあることがわかると思います。
これが、総裁への批判が、まるで自分が批判されているように感じてしまう理由だと思われます。一般の人が総裁への批判をすればするほど、信者さんは、まるで自分の親を悪く言われているように感じて、傷つくのです。
この親子関係の投影は、人間の持つ根源的な心の動きであって、なかなか根深いものがあります。普通に考えれば、親は子を庇護し、社会から護るものであって、子供に金銭を要求しないものなんですが、そういう親に恵まれなかった人もいると思われます。
中には、子供がアルバイトで稼いだお金を「親には感謝しなきゃいけないよ」と言って差し出させ、自分のタバコ代にしながら、「親孝行ができてお前は幸せだね」などと言う冷たい親もいます。
そのような親に育てられた人は親の愛情に飢えているので、宗教で癒しを求めることになるのだと思います。ですから、そういう場合はこの自己暗示から目を覚まさせることは、容易ではありません。
お金を要求しない親なんて考えられないわけですから。
私は信者さんに言いたいのですが、神の愛は与えきりではなかったか、ということです。愛情のある親は、子供に働かせ、さらに金銭を要求するなんてことはありません。
皆さんは、反抗期があまりなかったのかもしれません。私はなかった。しかし、反抗期は子供が親の影響から抜け出し、真に自立した大人になるために必要なことです。
魂の親が用意してくれるという「天国への道」は、自分勝手な親が用意してくれた「東大合格への道」でしかありません。それは、必ずしもあなたが本当に望んだ人生ではないのかもしれないんです。
「主のために人生の全てを捧げます」と誓ったのはなぜなのか、あまり覚えていないでしょう。それをよく思い出してみるならば、親に言われるがまま猛勉強し、テストで100点を取るという結果を出さなければ親に自分を認めてもらえない、と考えていたからではないでしょうか。
しかし、本当の親の愛情とは、そんなの関係ないんです。子供が働かなくても、お金を差し出さなくても、感謝しなくても子供を愛しているんです。親を信じる良い子だけがかわいいのではないのです。「父さん、説教ウゼーよ」と言われても、子供の幸せだけを願うのが本当の親の愛だと思うんです。
あれをしろ、これをしろ、と言われるがままの人生ではなく、自分の人生を生きる方が、はるかに幸福なのではないでしょうか。
あれをしろ、これをしろ、と言われるがままの人生ではなく、自分の人生を生きる方が、はるかに幸福なのではないでしょうか。
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