2021年3月10日水曜日

宗教体験と老いについて

 宗教体験について,先ほどネガティブに語った。しかし完全否定はできない面もあるなと思ったので,さらに言いたいことを書こうと思う。

 青年だった私も40代半ばを過ぎた。若者は理想を追い求めるが,この年になると人生をどう閉じてゆくかということに想いを巡らさざるを得なくなる。なぜなら,体と精神に衰えを感じ始めるからだ。私の両親は70を超えている。体力的にも精神的にも,きついだろう。私もいづれ,そうなるのだ。

 思うようにいかない心と体。いずれ,仕事をする必要もなくなるだろう。そんな中,精神の世界・内面と向き合うことからは逃れられなくなってくる。最後の拠り所は,やはり精神の世界・想像の世界,死の先にあるかもしれない,天国の世界を心待ちにすることなのではないだろうか。その意味で,宗教は人間にとって必要なものなのかもしれないと最近は思うのだ。

 あの世は存在しないだろう。瞑想の中で極楽の世界に遊ぶこともできるが,それはおそらく,自分で自分が作り出した妄想なのだろう。

 それはわかっている。だけれども,老いるにつれて,現実世界の中に希望を見出すことは難しくなってくる。これまで自分が築き上げてきたものー仕事や家族や友人などーが,一つ一つ崩れてゆくのを目の当たりにせざるを得ないからだ。

 釈迦は変化することが世界の本質なのであり,確かなものはこの世に存在しないと言った。しかし,人間にとってそれはあまりにも耐え難い。変化する世界の中にあって,変化しないもの,それが魂であり霊でありあの世の世界なのだ。想像の中で,その世界にどっぷりと浸かる時,心には平穏が訪れる。そのようにして,何千年もの間,いや数万年かもしれないが,人間は静かに死を受け入れてきたのかもしれない。

 この話は誰にとっても逃れられない話だ。全ての人にとって,他人事ではないのだ。人は皆,死ぬのだから。


2021年2月24日水曜日

宗教体験について

 皆さん,お久しぶりです。久々の更新です。お付き合いくだされば幸いです。

 はっきり言って,大川の予言は外れている。言っていることはコロコロ変わっている。支離滅裂だ。それでも,熱心な信者は宗教を辞めようとしない。なぜだろうか?

 その一つの理由は、いわゆる「宗教体験」にあると思う。そして、教祖が「信仰が大切である」と事あるごとに口を酸っぱくして言う理由も、この宗教体験をするために必要だからだ。幸福の科学の信者は支部・精舎と言われる施設で瞑想の指導を受ける。今日はそのことを話そう。一般の人にとって、宗教体験とは何か特別な体験だとのイメージがある。信者時代,私も何か特別な体験だと思っていた。でも本当はそうでもないのだということも話そう。

 最初は半信半疑なのである。私も自分には霊感はあまりないと言っていた。やり方は,次の通り。場所はどこでも良いが,静かなゆったりとした音楽が流れる場所で,まず座る。呼吸を整えて,心をリラックスさせる。「正心法語」というお経のようなものを唱えて精神を集中させる。目を閉じ,「導師」の誘導によって外界から自分の内面へと意識を向けさせる。

 この最初の一連の流れは催眠術と似ているが,テレビで見るような魔法のようなものじゃない。催眠術もかかりやすい人とかかりにくい人がいるが,それは信じやすいか,そうでないかの違いでもあるのだろう。私はどちらかというと催眠術にはかかりにくいほうだった。というのは,できるだけ客観的にものを見ようと考えていたからだと思う。これは信じにくいということではなく,むしろ霊的な存在は深く信じていた。ただ,瞑想の中で守護霊を「客観的に」認識したいと思っていた。

 目を閉じ,時間をかけて自分の内面へと関心を移してゆく。そしてまず最初は自問自答から入ってゆく。「あなたにとって〇〇とはなんですか?」みたいな考えさせるような問いについて考え,自分で答えを出してゆく。自問自答であるから,問いに対して帰ってくる答えは自分が作り出したものだ。それはわかっているのだが,幸福の科学理論で言うと守護霊は自分自身の魂の一部であって天上界にいる自分の過去生の魂であるということになっている。だから,自問自答を繰り返しているうちになんだか自分が守護霊と対話しているのだと言う感覚になってくるのだ。

 講師がよく言っていたが,教義をよく学んでいるほど,守護霊とよく同通すると言う。教義とは,人生の悩みに対する,幸福の科学が示すある種の回答例だから,それをよく学ぶほど,幸福の科学的な考え方がわかるようになってくる。例えば,人生の試練はあの世で計画していたのだ,だから逃げずにその問題に取り組まなければならないのだ,とか,嫌いな相手は実はあの世で一緒に生まれて魂を磨こうと約束してきた相手なのだ,とか。

 そういうことを学んでいると,自問自答で出てくる答えというのは,幸福の科学的なものになってくる。研修会では守護霊や天使の活躍を描いた映像を見せられることもある。そのような映像を見た後に瞑想に入ると,天国の情景さえ思い浮かべることができるようになっていく。光り輝く存在が,自分に語りかけてくる・・・そして慣れてくると,その存在が,自分のためにアドバイスをくれたり,自分のために悩んでくれたり,泣いてくれたりするのだ。

 もちろん最初は,これは自分自身が作り出した想像であることは十分わかっている。しかしそのような体験を繰り返していくうちに,次第にこれは天使からの働きかけ,そして自分が信仰している神である「主・エルカンターレ」から自分だけのためにアドバイスを頂いた,という気持ちに誘導させられてゆくのだ。

 そこには客観的なものは何もない。全ては主観的な体験であるのだということは理解はしている。だけれども,全ての魂は主・エルカンターレから流れ出し,分かれたものである,という教義を学んだ信者は,主観的な世界を客観的な霊的世界であると信じてしまう。それは,冷静な理性の世界ではなく,感情を伴った感性の世界である。人は正論では動かない。そうではなく,感情を動かされるものに惹かれ動かされるるものだ。現実の人間世界では得ることができない無条件の愛が,この理想的な世界では得られる。あの世では思えば何でも可能であるという。障害を持った重たい肉体に苦しんでいる人も,魂が綺麗であればあの世では自由な霊体を持つという。それは苦しい現実の中を生きている信者さんたちにとって,唯一の心の拠り所であり幸福の源泉なのだ。

 自作自演であることは百も承知なのである。だが,この宗教体験を事実であると認識すると,現実世界の方が事実とは異なるということになってくるのだ。それはそうだろう,現実と想像は違うのだから。そして,想像の世界の方が美しく,愛に満ち,欠けることがない。この想像力,あるいは理想を追い求める心こそ,人間だけが持っている能力で,その力を使って人類は集団を形成して地球を支配してきたのだとすら思う。

 宗教体験という名の自作自演,これを繰り返すことによって自分で自分を納得させている。だから、決して教祖に騙されているのでは無い.自分が自分で自分を騙してゆくのだ。これが宗教体験の正体。だから、宗教をやっていると抜けることが難しくなる。外部の情報に耳を傾けなくなっていくから。独りよがりの意見を述べ、他人の気持ちがわからなくなってゆく。

 確かに,人生には辛いことが起きる。その理不尽な現実を受け止めきれない,理解できない時がある。そんな時,宗教体験はその人を救ってくれる。だけれども,現実を変える力はないのだ。「私は変わった」という体験談ばかり聞いてきたかもしれないが,あなたの現実は,ここ10年間で少しは変わっただろうか?心の傷が癒えたのなら,想像の世界から現実の世界に戻ってくるしかない。そうせずに,死ぬまで,あるいは死んだ後も,現実には存在しない,その理想的な世界で生きてゆきたいと考えているのが,信者さんたちなのだ。


2018年4月29日日曜日

大川隆法と独裁者

会員だったとき、私は「伝道」したいと思っていた。
伝道とは「与える愛」であって、絶対の「愛の行為」であるとされていた。

ところが一方、伝道とは幸福の科学という組織にとっては「会員数を増やすこと」を意味していた。
私は組織としての幸福の科学が「与える愛」を行っておらず、ただ数字だけを求めている(要求しかしていない=奪う愛)ことを薄々わかってはいたが、そのことを意識しないようにしていたと思う。

毎月のように「伝道目標数」を申告し、その達成を求められる日々もあった。
中には次々に伝道に成功して行く人もいるが、実際のところ、どうして「数」を増やせるのかよくわからなかった。
幸い、私は「伝道」に成功したことは無かったが・・・。

見ず知らずの人の家を訪問し、献本をするという行動もやったことがある。
これは最初はかなり勇気がいることだったが、ある意味、羞恥心を捨てて慣れてしまえばできないことはない。

難しいのは、「家族伝道」だ。
自分の両親や兄弟は、小さい頃から私のことを知っている。ごまかしは効かないのだ。
私は父親にこう言われた。

「大川隆法さんは、北朝鮮の金正日とどう違うの?」


正直、私はこの疑問に答えられなかった。
私は大川隆法を信仰していた。自宅に大川隆法の「御真影」を飾り、毎日祈っていた。
休日には支部や精舎と呼ばれる施設に行き、様々な形のエル・カンターレ像に対して手を合わせていた。

外形的には、この行為は北朝鮮の人々が「将軍様」の写真や像の前でひれ伏しているのと変わらない。
もちろん、金正日は唯物論の国の独裁者であり、大川隆法は唯物論を批判している。
思想の内容が天と地ほども違うのだ、と説明できないこともなかった。

だが、私には思想が全く違うにも関わらず、行動が一緒になることの理由がわからず、腑に落ちなかった。

幸福実現党についても同じことが言える。
幸福実現党は自由で寛容な宗教政党である、リベラルな考え方を持ち、民主主義を守る、そういう新しい政党だと私は信じていたわけであるが、
実際には党首をはじめ全ての党員が大川隆法の鶴の一声によって動く政党だということにも薄々気がついていた。
これは全く民主主義的でないし、むしろこういう政党が政権をとったら「独裁政治」になるのではないだろうか。

「わからない人はわからなくてもいい」とか「信仰は美しい」という言葉によって、自分を自己陶酔させていたのだと、今では思う。

1991年ごろ、幸福の科学がマスコミに叩かれたことがあった。
「大川隆法はヒトラーのようだ、ファシズムだ」と言われたことがあった。

それに対して、大川隆法は大講演会でこう言った。

「ヒトラーがいつ愛を説いたか。ヒトラーがいつ神の国の実現を説いたか。それを説いたはイエス・キリストではなかったのか。キリストとヒトラーの区別がつかないものに言論を弄する自由などない」

今の私には、「愛という言葉を声高に叫べば、自分の行為は正当化されるのだ」と言っているように聞こえる。
しかも、「自由などない」と言ってしまっている時点で、もう独裁者としての"資質"を示してしまっている。

当時の私は愛に飢えていた。自分が独りでは寂しくて、誰かにやさしくして欲しい。
でも奪う愛では愛を貰えない。だから必死に「愛を与えて」いたように思う。

「人類を愛する人」とはつきあわないこと。
愛を唱えている人は、必ずしもやさしい人ではない。
たいていは残虐で冷たい人であることのほうが多い。


加藤諦三著「やさしい人ーどんな心の持ち主かー」178ページ、PHP文庫

2017年5月7日日曜日

感謝の心はそんなに大切なのか

 どんなに辛い現実でも「主よ、私にこのような尊い経験を与えて下さってありがとうございます。」と祈ることによって、乗り越えられることはあります。それは自動車のエアバックのように心が折れるのを防いでくれるのです。

 そんなとき、幸福の科学に「出会った」人は「主への感謝の心」を大切にするよう教え込まれます。それはあらゆる機会に行われるのです。

 朝晩の祈りでもそうですし、行事の始めと終わり、発表の前と後にも行われます。

 こうして四六時中「主への感謝」をすること、「霊的な自分」を追い求めることによって現実からどんどん、どんどん離れていって、現実が見えなくなっていくのです。

 私は長い長い間「主への感謝の心を忘れたとき慢心・堕落が始まるのだ」と思っていました。

 それは、いろいろなことがあり会から距離を置くようになってからもしばらく続いていたのです。

 ところが次第に「良い出来事があれば主に感謝し、悪い出来事は自分の責任として捉えるべき」というのはおかしくないだろうか?と考えるようになっていきました。

 あるとき、毎月行われる○○祈願や○○研修に万単位でお金を払っているが、以前とあまり変わりばえしない自分自身や支部のメンバーを振り返ってみたとき、こう思ったのです。

 「良いことも悪いことも自分に関係する出来事なのであって、幸福の科学は全然関係ないんじゃないだろうか?」

 何か自分が成功したら、その協力者に感謝するべきであって、どうして大川隆法に感謝しなければならないのでしょうか。

 ましてや、失敗したとき、あまり良くないことが起きたときでさえも、どうして大川に感謝しなければならないのでしょうか。

 以前、「経営診断」だったかな、そんな名前の100万円程度の高額布施の精舎研修だったか祈願だったかがあって、これを受けると「主から試練が与えられる」という評判がありました。

 ある会員さんは医者の仕事をしていたが、この研修を思い切って受けたところ、しばらくして舌のガンが見つかった。

 大変な思いをする中、医師として病気の辛さがわかるようになり、患者さんに優しく接することができるようになった。主よ、ありがとうございます・・・などというエピソードが支部から伝わってきたこともありました。

 もちろん、そのような大変な経験をすることは悪いことではないですが、そのような人生経験は全てその人のものであって、大川隆法は全く関係ないし、高額のお金を払う義務も責任もありませんし、ましてや感謝しなければならない義理は全くないのです。

 「神様」から見れば美しい「感謝の心」も、現実を見れば「奴隷の心」でしかないのです。

 私が行っていた支部の会員さんで高齢の方がいらっしゃったのですが、彼がこの研修を受けたところ、支部に来なくなってしまいました。

 その後わかったことは、彼が病気になって入院し、最後は亡くなっていたということでした。

 この事実を、支部では「主に引き上げられた」と表現し、「彼の娘さんがこのことをきっかけに入会した」と言って皆の前で祝福の言葉を述べていたのです。

 私はこれらのいろいろな話を聞いて、「私はこのような宗教的な人生を受け入れることができるだろうか」などと思ったのですが、やがて「難しいな」という思いに徐々に変わっていきました。

 あれからずいぶん時間が経った今は「異常な考え方をする人たちだったな」と思っています。

 幸福の科学に批判的な人の中には、幸福の科学に「没落の法則」があり、幸福の科学に関わった人が不幸になっていく、と述べる方もいますが、私はそのような「法則」があるとは思えません。

 先ほど述べた医者がガンになったことや高齢の会員さんが亡くなったことは、研修や祈願とは無関係に起きた、一般の人にも等しく起こりうる出来事にしか過ぎない。そう考えるのが普通だと思います。

 いくらたくさんの例を挙げたとしても、個人の幸不幸と幸福の科学との関連性は全くないのです。全ては無関係な出来事を神様と関連づけて理解することで困難な現実を乗り切ろうとする、人間の精神的な営みから発しているのだと思うのです。

 そう考えなければ、会員は幸福の科学をやめることはできないと思います。会員は不幸を試練と捉えてがんばりつづけるし、批判を受ければ受けるほど、自分の人生を犠牲にして幸福の科学に奉仕し続けるようになるでしょう。

 「不幸になったことを試練ととらえて神に感謝します」なんて聞けば、人は「凡人にはなかなかできないことだ」と評価してくれるかもしれません。

ですが、そのような考え方をする人に対して「自分もそうなりたい」とか、「友達になりたい」とまでは思わないのが普通の人間です。

 ですから、もし会員のあなたがそう思えるのであるならば、それは「異常」な考え方の持ち主であるということに気がついて下さい。

現実を見たくない心

 皆様こんにちは。またかなり時間が経ってしまいましたが、ブログを辞めたわけではありません。それにしても子育てがこんなに忙しいものだとは思わなかったです。

 さて、今日は少し余裕が出てきたので、幸福の科学について思うことを述べていきたいと思います。

本当の入会のきっかけ


 今では親や兄弟・友達や知り合いが幸福の科学の会員で、彼らの影響を受けて会員となった人が多いのかもしれません。人間は身近な人が笑顔でやっていることを悪いこととは思えないものです。

 私の場合も友達に勧められたこと・近所の会員が親切だったことが入会のきっかけだと前回書きましたが、それはあくまでも会員時代に他の人にしていた表向きの理由というか、一般人向けの説明です。

 会員は「仲間を増やしたい」と常に思っていますから、さわやかな印象を相手に与えるよう、常に配慮しています。

 そのような日々を24時間続けていると、自分自身に対しても体裁を取り繕うようになっていくのです。

 私の場合、入会の本当の理由は「失恋」と「孤独感」だったと思います。

 私は当時18歳、大学に入学して初めての一人暮らしに加えて、友達もあまり作れない状況の中、初めての恋愛と失恋をしました。

 私にとっては「どうしようもない現実」があったように思います。

 失恋など、今から考えれば「どうしようもなくはない」し、本質的には時間が解決する問題でした。

 このことが幸いして、私は幸福の科学を辞めることができたのだと思っています。

 なぜなら、結婚して孤独感がなくなって初めて、自分が自分で自分を騙していたこと、自分が幸福の科学に入会している理由を一生懸命正当化していたことに気づいたからです。

自分の中の問題だったのです。

 それでも入会から脱会まで約20年という時間がかかりました。

 それほどまでの長い時間、私は現実から目を背けていたし、現実を見たくなかった。

 現実をそのまま受け止めるのではなく、「自分は天使として使命を持って生まれたのだ」というような、非現実的な(これを「霊的な」と呼んでいました)受け止め方をしていたのです。

 私の孤独感の原因はコミュニケーション能力が不足していたからです。

 だから、恋愛もうまくいかない。ただそれだけのことに気がつけば良いだけなのに、私はそれを解釈で乗り切ろうとしていたのです。

 「私と縁がある魂は一般の人の中にはあまりいない。会員の中にこそ深い縁がある人がいるはずだ」とか、「一般の人からどのように思われてもかまわない、どうせ次元の違う世界から生まれてきた人たちなのだから」などと本気で思っていました。

 そして「心が変われば世界も変わる」というキャッチフレーズや「相手の心をなんとかするのではなく自分の心を変えるべき」という教えによって、ひたすら自分の「思い」を変えるよう努力していたのです。

 自分の思いを変えるというのは、すなわち現実をそのまま受け止めるのではなく現実の受け止め方を変えることにつながっていきました。

 辛い過去や現実はどうすることもできないが、それに対する解釈を”霊的に”変えることで今を幸福にできるのだというのが、私の考え方でした。

2015年12月16日水曜日

私が正会員になった経緯


 昔、誌友会員という制度がありました。これは、月刊誌を定期購読するだけの会員で、いきなり正会員になるのは敷居が高い、という人はこちらに受け皿があったわけです。

 私は友達に勧められて大学一年生の時にこの誌友会員になりました(詳しくは前に書き込みました)。その後しばらくすると、下宿先の近所に住んでいる会員さんがアパートに訪ねてきて、月刊誌を持ってきてくれるようになりました。その人はなかなか親切そうな人で、仕事は大工をしていると言っていました。彼には、少なくとも当時の怪しい宗教信者にありがちな暗い雰囲気や、身だしなみの乱れなどが感じられず、普通の人のように思われたので安心感がありました。

 ある日、その人が「地区の集い」に参加しませんか、と誘ってきました。私も18歳で初めて一人暮らしを始めたばかりでしたし、まだ友達もできておらず、孤独感を感じていた、というのもあります。アパートから大学までは電車で2駅くらい離れた場所にあったので、近所に知り合いができるといいな、という思いもありましたので、参加することにしました。

 それは食事会のようなもので、近所に住む会員が5人くらい集まっていろいろな話をする、というものでした。主婦の人、無職の人、普通のサラリーマンや、小さな会社の経営者のような人もいました。皆、ごく普通の人だったので、安心した覚えがあります。中でも主婦をしていた方にはかわいがってもらった記憶があります。アットホームな雰囲気で私を受け入れてくれたので、私は何回か参加しておしゃべりするようになりました。そしてあるとき、正会員になりませんかという誘いを受けたのです。

 当時、正会員になるには書籍を5冊以上読み、その感想を文章に書いて送ることになっていました。私はあと数年間は会員にはならず、様子を見ようと思ってはいたのですが、友達も既に正会員だし、あまり強制されることがない組織かなと思ったので、その場で文章を書いて送ることにしたのです。

 正会員になり、地区の会の皆さんからは歓迎され、喜ばれました。私はこんな歓迎を受けたことは今までなかったので、家族から遠く離れた一人暮らし先で、新たな居場所を得たように感じました。

2015年6月21日日曜日

青春の思い出

 会場に詰めかけた、たくさんの人々。私はなぜか、その会場に立っていた。そこは、個人宅の広めの部屋を借りた、衛星中継会場だった。
 
 講演開始までは、まだ時間がある。会場にいるのは、主婦や会社員、子供連れからお年寄りまで、実に様々だ。皆、決して特殊な感じはなく、普通の人々である。

「今日はたくさんの方がいらしてくれて、とっても嬉しいですね!」

 ふと、近くにいた女性が話しかけてきた。この人は、私と同じ青年部で、この講演会の準備をしてきた仲間だ。毎日夜遅くまで一緒にボランティアをして、この日に備えてきたのだ。他の仲間はあと数人しかおらず、少ない人数で、音響機器の準備や、チラシの作成と印刷と配布、会場のイス並べ、などなどを一緒にこなしたのだ。

 クタクタになりながらも、頑張ってきたのは、当日多くの人が会場に足を運ぶのを見たいからだった。

 そんな想いが叶って嬉しそうな彼女の顔はとてもキラキラしていて、私は何も言えなかった。

「あぁ、なんて純粋な目をしているんだろう。私はこんな純粋な人達が好きだ。けれども、残念ながら、本当に残念ながら、君は騙されていたんだ。」

 そう思って、口を開こうと思ったけれども、彼女にそんな絶望させるようなことを言えるはずもなく、ただ「よかったね」と言ってニッコリと作り笑いをするしかなかった。

 総裁先生には妻がいたが、離婚した。そのとき、総裁は妻が100%悪い、ということにして教団から追放した。君はこの行動についてどう思うだろうか?

 私は男性だから、わかることがある。それは、少なくとも若い頃だけであったとしても、または一瞬でも妻を愛したことがあって、自分から結婚した男であれば、その後うまくいかなくなって離婚した相手を公開の場で罵倒なんてしない。

 しかし総裁は、離婚後に公開で出版した書籍の中で、「相手が結婚してほしいと無理やり押しかけてきたから、仕方なく結婚してあげた」と言ったのだ。宗教家として、というよりも、男として本当に最低だと思わないか?

 僕たちはそんな責任感や主体性のカケラも持ち合わせていない小さな男のために、大切な大切な青春の時間を使ってしまったのだよ。そう言いたかったけど、なぜか言えなかった。

次の瞬間、場面が急変した。

 私は幸福の科学を辞めてだいぶ時間が経っているはずなのに、どうして総裁の講演会に来ているんだろう?

 そう思っていると、次に別の女の子が話しかけてきた。

「オパールさん、お久しぶりです!」

 あぁ、この子も支部で一緒に活動した子だ。家族全員が会員で、幸福の科学的価値観の中で生まれ育った高校生だ。友達を含め、人間関係の全てが幸福の科学の会員になっている。

「見てください、私、声優になる夢が叶ったんです!」

 見ると、幸福の科学の新作アニメ映画の脇役の声優として、選ばれたらしい。

彼女は以前から声優になるのが夢で、ボイストレーニングをしている、という話を聞いていた。

 以前、一度、彼女から相談を受けたことがあった。それは、付き合っていた彼氏にジュエリーショップに連れて行かれ、懇願されて高い宝石をローンで買うことになってしまった、という話だった。彼女は好きな彼氏にノーと言えず、相談してきたのだった。

 私はすぐにそれがいわゆるデート商法であることを指摘して、その彼氏が詐欺師であると伝えた。その事件は、消費者相談センターなどの協力で、事なきを得たが、信じていた彼氏に裏切られたことはかなりショックだったようだ。

 人を信じることは大切なのかもしれないが、疑うことも必要なのだ。でも彼女は事件が終わってから今日に至るまで、総裁を疑ったことは無いと思う。

 講演会の会場で、声優に決まって嬉しそうな彼女に対し、私は「総裁先生はテレビに映っていない時、幹部職員に罵倒の言葉をいつも浴びせているんだよ。それは最近の話ではなく、君が生まれる前、幸福の科学が発足する前からそうだったんだよ。」と言いたかった。

 しかし総裁を否定することは幸福の科学的価値観を否定することであり、ひいては両親、家族、友人、将来の夢を含めた彼女の人生の全てを否定することになってしまう。そんなことになるくらいなら、真実を知らないまま生きていくのが幸せなのだろうか。

 まぁ、そう言ってみたところで彼女は信仰を守ろうとするから、私の言うことなど信じないかもしれない。

 そう思うと、私はただ「夢が叶ってよかったね」と作り笑いをしてニッコリするしかなかった。

そこで、私は目が覚めた。
夢か・・・。

 彼女たちは今頃どうしているだろうか。一緒に活動する中で、共に笑い、夢を語り合った「法友」たち。私は法友を失ったが、真実を知らないまま人生を終えるよりはずっと良かったと思う。

 私の青春は幻だった。全てが、夢だったのだ。

2015年3月11日水曜日

世の中には悪い人もいる。付き合う相手を選ぶことも必要

 昨年末から、更新ができていませんでした。といいますのも、今年の初め、妻がかわいい娘を産んでくれたからです。今も子育てに追われています。幸福の科学を離れてから、私は幸せを実感しています。

さて、今日は少し余裕ができたので、「世の中には悪い人もいる。付き合う相手を選ぶことも必要」という話をしたいと思います。

「良い人」ほど、相手に少々癖があっても、相手の良いところを見いだしたりして、良い関係を築こうとします。信者さんにはこういう人が多く、相手を疑うことがあまりありません。これは場合によっては長所になるのですが、行きすぎると良くないことも起こります。

なぜなら世の中には、彼らが思いもよらない考え方を持つ人間も存在するからです。

私がまだ学校を卒業したばかりの頃・・・私は就職し、ある上司の下で働くことになりました。

最初は、非常に面倒見が良く、私をよく育てようとしてくれる、良い上司に見えました。
私は「良い上司に恵まれた」と考え、感謝をしながら仕事をしていました。

しかし、しばらくすると上司は他人の悪口・不満を私にこぼし始めるようになりました。
自分以外のあらゆる人に対する「あいつはダメ、こいつもダメ」「あれが悪い、これが悪い」という話をいつも聞かされるのです。

私は最初はその話を真に受けて「そういう悪い人もいるのだ、気をつけないと。上司は私に世間の厳しさを教えてくれている」と考えていました。

ところがそれが何年も続くと、「よくいつまでも不満を言い続けることができるな」と思うようになってきました。

「あいつは実力が無いくせに口だけは達者だな」「私があいつのためを思って言ってやっているのに、反論してきた。礼儀を知らないヤツだ」「あんなことも知らないのか」「あいつの顔を見ただけで虫酸が走る」「低レベルなやつとは同じ空気を吸いたくない」などなど・・・

その言葉は年を追うごとにエスカレートし、そのような他人への悪口を聞くたびに、私は気分が悪くなっていました。

海外出張から帰ってくると、ロシア人の若い女性が川端康成の小説「雪国」を知らなかった、という話を私にするのです。そして、「ロシア人っていうのは教養の無い民族だなぁ!」と決めつけるのです。

衝撃的だったのは、日本で生まれ育った日系韓国人の若者を前にして「韓国人はレベルの低い、下等な民族だから」などとと言い放ったことですかね・・・基本的に他人を見下しているのです。

彼の言いたいことはただ一つ「自分の言うことだけが正しく、それを否定する人は生きている価値が無い」ということなのでした。

私が反論しようとすると、「おまえもあいつらと同じ考えなのか、そんなことではこの仕事をする資格は無い!」などと脅してきました。

その職場では、私とその上司の二人だけしかいません。いわば密室です。私の勤務状況を評価するのは上司であり、その上の役職の人は現場を見ようとせず、作文のうまい上司が書いた報告書だけを見て物事を判断していたのです。

本当に苦しかった。

私は幸福の科学に顔を出すことで、職場のストレスを癒していました。そして私は支部長のアドバイスである「感謝の心が相手を変える」とか「圧倒的な善念で悪を押し流せ」などという言葉を信じて、上司の仏性を信じようと努力していました。

「人間関係調和の法」「八正道」「大死一番経」「両親への反省と感謝」「エル・カンターレ直接霊指導・心願成就」などなど・・・一回あたり数万円〜数十万円の精舎研修に何度も参加しました。

それから10年くらい経って、大川隆法が「レプタリアンの霊言」を出し始めた頃から、私の上司の魂はレプタリアン系なのではないか?と思うようになりました。

私は、どんな人間の心にも必ずその奥に「温かい心」がある、それが仏性である、と思っていましたが、どうやらそのような心を持たない人種もいるのかもしれないと考え始めたのです。

もしそうなら、私がいくら祈願しようが、感謝しようが、信仰生活を続けようが、自分の心を変えようが、上司は変わらないのかもしれない。もう10年も、私は上司に奴隷のように使われていたのかもしれない、と思い始めたのです。

それから、私は働きながら、密かに別の職を探すようになりましたが、新しい就職先はなかなか見つかるものではありませんでした。

それでも、私は主エルカンターレだけは愛の神であると信じて、毎日祈りながら、自分の心がその上司にひきづられ、他人を批判することしかできない、そんな人間になりたくないと思っていました。

そして私は性懲りも無く、「転職成功祈願」「出世祈願」などを受けたりしていました。

後に私が大川の「レプタリアン的性格」に気がついたのも、こうしたことが、ひとつのきっかけだったのかもしれません。

最初は信じられなかった。大川先生が他人を罵倒するような言葉を吐くなんて・・・。まさか、大川総裁先生が口を開けば他人を批判するタイプの人間だったとは。

でも、それは真実だったのです。調べれば調べるほど、それは疑いから確信に変わっていきました。その後、私はやっと職場を変えることに成功できたのです。

2014年12月8日月曜日

信仰を失うとはどういうことか

「信仰を失うとはどういうことか」

大川きょう子との離婚騒動のとき、こんなタイトルの法話もありましたね…。

幸福の科学では「信仰心を失った者は、次は人間として生まれるのが難しくなる」「それまでの人生でずーっと信仰心を持ち続けていたとしても、死の直前に仏を疑えば、その人は地獄に落ちる」「信仰のロープを手放せば、奈落の底に落ちる」などと言われています。

信者さんは「主は私たちが誤らないよう、警告してくださっているのだ」などと受け取るでしょうね。

でも、よく考えてみてください。これは脅しなんじゃないですか?

大川隆法の言葉の真意を知りたくば、文章の主語を替えてみるといいです。「信者が」ではなくて「大川隆法が」に置き換えるとよくわかります。

例えば「信者は主エル・カンターレの慈悲によって生かされている」と考えていると思いますが、これは事実ではないんです。

思い込んでいるだけなんです。幻なんです。幻想です。現実ではない。

現実は、大川隆法が信者の慈悲によって生かされているんです。なぜなら、信者のお布施がなければ、大川隆法は生活できないからです。そうでしょう。違いますか?

これが本当の現実です。「信者はエル・カンターレの霊的な光によって生かされている」なとどという、確認のしようのない話よりも、ずっと正しいはずです。

大川総裁こそ「信者への感謝」を捧げなければならないはずなのです。

これは先日も紹介した内村鑑三の霊言にあった
「神輿のなかにいる神様が下りてきて神輿を担いで、弟子が神輿の上に乗ってる。これが現状じゃないか!」
という発言も同じで、この認識は大川の被害妄想にしか過ぎません。

どう見ても「弟子が御輿を担いで、大川隆法が御輿の上に乗っている」のが正しい現状認識でしょう。なぜなら大川は信仰の対象であり、信者の布施によって事業が成り立っているからです。

では信者がお布施をしなくなったらどうなるでしょうか?

支部では「現成の仏陀に喜捨させて頂ける、またとない機会を逃した魂は、来世必ず後悔する」などと繰り返し言っていますが、これは決して確認のできない話です。

これは幻なんです。心理的な脅しです。信者さんがそう思い込んでいるだけなんです。

よくよく現実を考えてみれば、お布施が無くなって本当に困るのは大川と職員だけなんです。

収入のある在家信者は植福をしなくても困ることはありません。これはすぐにでも確かめられる、簡単な事実です。

「自分は来世どうなるか?」ということしか関心がないと、冷静な判断はできません。

また、信者の行動が大川総裁にどんな影響を与えるか?ということについては考えたこともないはずですよ。

なぜなら、心理的な受け身の姿勢が身についてしまっているからです。

ではもう一度問います。

信者が信仰を失ったら、大川隆法はどうなりますか?

すると「信仰を失った」という言い方は正しくないことがわかるでしょう。

信者が信仰を失ったということを逆に見ると、大川が信頼を失ったということになるのです。

大川は「信仰を失うと、奈落の底に落ちる」などと言っていますが、この文章の主語は信者ではない。大川隆法なんです。

大勢の信者の信頼を失えば、大川隆法自身が奈落の底に落ちる。

ただ、それだけのことです。

社会的に見れば、大川隆法は信者からの施しによって生かされている、乞食にすぎない。

このことを、自分自身でもよくわかっているのだと思います。

だから、口を酸っぱくして、何度も何度も、信者に「信仰の大切さ」を説いているんです。

2014年11月26日水曜日

ある職員さんが体験したこと

私が昔、学生部で活動していた頃、東大の駒場祭で学生向けの講演会がありました。

「黎明の時代」と題する講演会で、1991年頃のことだったとおもいます。

当時大川隆法は総裁ではなく「主宰」と呼ばれていました。

その中で、21世紀に来たるべき未来社会では、宗教家が最も尊敬される職業になるだろう、という話があったかと思います。

たしか「ユートピア創造論」という書籍にも、似たような話があったかと思います。

学生部の間では、幸福の科学の職員になると言うことは憧れであり、希望でした。

人生の大学院・幸福の科学。今はまだ小さな組織だけれども将来は世界を救うようになる。

大企業に入って自分の才能を埋もれさせるよりも、この幸福の科学に入って、才能を発揮したい。

私は職員にはならなかったけれど、大学卒業と共に、夢と希望を持って幸福の科学の職員になった学生部の仲間たちが数多くいました。

彼らはどうなったのだろう。 今、どこにいるのだろう。

いずれにせよ、1999年に起こると言われた地球規模の天変地異を回避するために、大伝道の中を駆け抜けたはずです。

親戚・友達・近所・町内会に至るまで、あらゆる縁故を伝って、この世界が滅びる前に「霊的世界の実在を伝えたい」と思って昼夜を問わず活動したはずです。

「何言ってんの?お前は騙されているんだ」「宗教?うさん臭いなあ」「もう書籍を送るのはやめてくれ」「ごめん、もう友達じゃないから・・・」

そんな声を何度聞いたことでしょうか。何度くじけそうになったことか。

妻や親戚が活動に反対し、遂には離婚せざるを得なくなったこともあったでしょう。

別れるときにみせた、元妻のあの悲しそうな顔が、脳裏から離れないときもあったはずです。

その度に、必死に涙をこらえながら主に祈りを捧げ、このエル・カンターレ信仰を守ろうと、自らを奮い立たせてきたはずなんです。

そうして、支部長や精舎の館長として実績を作り、様々な出会いと縁の中で、総合本部に異動する機会を得た職員、

主のお側近くで働けるという、この上ない喜びを得ることができた本部職員もいらっしゃるでしょう。

そして中には、大救世主と直接お会いし、数千年に一度しかない、霊天上界から高級霊・内村鑑三の霊言が降ろされる、まさにその歴史的現場に、インタビュアーとして参加を許された人もいるでしょう。

霊言の収録前、その奇跡の瞬間に臨んで、控え室で緊張しながら質問内容を一つ一つ確認したかもしれません。

そんな、ある職員が、長い長い信仰の道を歩いてきた、その果てに体験した出来事を、以下に示します。

経典:内村鑑三「信仰・学問・迫害」を語る より
斎藤 私たちを叱るとしたら、どこが問題なのでしょう。これは自己保身なのでしょうか。「現実を解釈してしまう」と言っていましたけれども・・・。  
内村鑑三 さっき来世の話もあったけど、来世は後悔することになるから。間違いなくね。だから、今、私が代わりに言ってやってるんで。 
必ず来世は後悔するよ。  
実際は、信仰の不足が現実の届かざるを招いた」ということが、いずれはっきり分かるから。 
だけど、「信仰が不足してるために、現実が届かない」ってことが理解できてないから、今、政党をやったり、大学をやったり、いろいろなことをしてそれを気づかされてるのよ。現実はね。 
届いてないことが気づかされてるんだけど、それをまた「解釈」で逃げようとしているからね。たぶんね。 
斎藤 「今のこの現実は、われわれの足りないところを教えてくれている」というか、それを示しているのだけども、まだ受け入れられない?  
内村鑑三 うん。要するに、「プロの仕事のレベルまで達してない」っていうこと。 
斎藤 はあ・・・。  
内村鑑三 君らは、「小学生が給料をもらっている」ようなもんだからさ。基本的にはね。 

これが、本当に、天上界から私たち弟子を見守ってくださっていたはずの高級霊の言葉なんでしょうか?

幸福の科学のために、全てを捧げてきた弟子達に対する言葉が、これですか。

あまりにも、ひどすぎるんじゃないでしょうか。