大川きょう子との離婚騒動のとき、こんなタイトルの法話もありましたね…。
幸福の科学では「信仰心を失った者は、次は人間として生まれるのが難しくなる」「それまでの人生でずーっと信仰心を持ち続けていたとしても、死の直前に仏を疑えば、その人は地獄に落ちる」「信仰のロープを手放せば、奈落の底に落ちる」などと言われています。
信者さんは「主は私たちが誤らないよう、警告してくださっているのだ」などと受け取るでしょうね。
でも、よく考えてみてください。これは脅しなんじゃないですか?
大川隆法の言葉の真意を知りたくば、文章の主語を替えてみるといいです。「信者が」ではなくて「大川隆法が」に置き換えるとよくわかります。
例えば「信者は主エル・カンターレの慈悲によって生かされている」と考えていると思いますが、これは事実ではないんです。
思い込んでいるだけなんです。幻なんです。幻想です。現実ではない。
現実は、大川隆法が信者の慈悲によって生かされているんです。なぜなら、信者のお布施がなければ、大川隆法は生活できないからです。そうでしょう。違いますか?
これが本当の現実です。「信者はエル・カンターレの霊的な光によって生かされている」なとどという、確認のしようのない話よりも、ずっと正しいはずです。
大川総裁こそ「信者への感謝」を捧げなければならないはずなのです。
これは先日も紹介した内村鑑三の霊言にあった
「神輿のなかにいる神様が下りてきて神輿を担いで、弟子が神輿の上に乗ってる。これが現状じゃないか!」という発言も同じで、この認識は大川の被害妄想にしか過ぎません。
どう見ても「弟子が御輿を担いで、大川隆法が御輿の上に乗っている」のが正しい現状認識でしょう。なぜなら大川は信仰の対象であり、信者の布施によって事業が成り立っているからです。
では信者がお布施をしなくなったらどうなるでしょうか?
支部では「現成の仏陀に喜捨させて頂ける、またとない機会を逃した魂は、来世必ず後悔する」などと繰り返し言っていますが、これは決して確認のできない話です。
これは幻なんです。心理的な脅しです。信者さんがそう思い込んでいるだけなんです。
よくよく現実を考えてみれば、お布施が無くなって本当に困るのは大川と職員だけなんです。
収入のある在家信者は植福をしなくても困ることはありません。これはすぐにでも確かめられる、簡単な事実です。
「自分は来世どうなるか?」ということしか関心がないと、冷静な判断はできません。
また、信者の行動が大川総裁にどんな影響を与えるか?ということについては考えたこともないはずですよ。
なぜなら、心理的な受け身の姿勢が身についてしまっているからです。
ではもう一度問います。
信者が信仰を失ったら、大川隆法はどうなりますか?
すると「信仰を失った」という言い方は正しくないことがわかるでしょう。
信者が信仰を失ったということを逆に見ると、大川が信頼を失ったということになるのです。
大川は「信仰を失うと、奈落の底に落ちる」などと言っていますが、この文章の主語は信者ではない。大川隆法なんです。
大勢の信者の信頼を失えば、大川隆法自身が奈落の底に落ちる。
ただ、それだけのことです。
社会的に見れば、大川隆法は信者からの施しによって生かされている、乞食にすぎない。
このことを、自分自身でもよくわかっているのだと思います。
だから、口を酸っぱくして、何度も何度も、信者に「信仰の大切さ」を説いているんです。
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