大学1年生の頃,私は初恋をしました.中学・高校は男子校だったので,女性とは話したこともありませんでした.皆さんも経験がおありかと思いますが,好きになると,本当に相手の目を見ることさえできず,緊張してしまって言葉も出てきません.勇気を出して一度デートに誘ったのですが断られ,すごく落ち込みました.よく考えれば振られたうちには入らないのですが,私としては振られたと思い,これで彼女に会うのがなんだか気まずくなってしまい,ズルズルといつまでも気持ちを引きずりました.当時はものすごく劣等感が深かったからでしょう.今となっては些細なことなのですが,当時はすごく悩み,劣等感を深めました.そんな時,「高橋信次の天国と地獄」の以下のような部分に,すごく共感したのを覚えています.
皆さん、ご経験があるでしょうか、読者のみなさんはねえ。女性にふられてねえ、下宿の二階で「あーあ、なんとかちゃーん」ね。「良子ちゃーん」「桂子ちゃーん」ね。「ミカちゃーん」なんてね。「あー僕は恥ずかしいー」ってね。「ミカちゃーん」なんてね。こういう気持ちがあるでしょうか。どうでしょうか、わかるでしょうか。ふられてねえ、もう一年経って「あー」なんてね。下宿の二階で時どき遠吠えしたりしてね。四つん這いになって、六畳の部屋四つん這いで這い回ってね。「あーあーあー」なんてね。「恥ずかしい」なんてね。こんなことをね、思った経験、言った経験がみなさんありましょうかね。
そして最後のデート誘って、映画館に入ろうとしてね。「僕と結婚しない?」なんて言って、「なにバカなこと言うのよー」なんて、「私は他にいい人いるわ。あんたなんて遊びよー」なんて言われてカクーッときてね。そして、ものすごくふかーく深手を負って、そして下宿の二階で六畳で四つん這いして「アオアオアオー」って、あなた動物の吠え声の真似してね、吠える真似したりして、叫んどると、洗濯物干しとった下宿の奥さんが心配してね。「どうしたのー、どうしたのー」ってね。「信次ちゃん、どうしたのー?」ってね。「春雄ちゃん、どうしたのー?」「春雄ちゃん、気でも狂ったの。頭、大丈夫?」「いや、奥さん大丈夫ですよ。僕、心配ないです」「でも今、『ミカちゃーん』とか、ねえ、『エリコちゃーん』とか言って叫んでなかった?」って。「いや、そんなことないです。あれはあのう、学園祭で今、あのう劇やっててその稽古してるんですよ、そうですよ」「春雄ちゃん、本当?」「そうですよ、僕、大丈夫ですよ。正常ですよ」って。「でも、その割には、夜中に時どきワオーワオーって吠え声が来るんじゃない?」なんてね。まあこんな瞬間もあったでありましょう。
まあそういうことでね、愛と言うにはなんか悲しい執着をね、私は感じます。だから、天上界に還って今、思うのにね、地上に出ている男女がね、みんな愛が成就されてね、思った通りみんなハッピーになっていったらいいなーと思うんだけど、見ていると失恋の方が多いんですなー。悲しい話の方が多くてね、世の中は。苦しみばかりが多い世の中で、なかなか成就せんのですよ。
(注:春雄とは高橋信次の本名のこと)こういう風に言われると,高橋先生は地上の私たちの心を,深く分かってくれている,と感じたし,そういう人を,どんどん信頼する方向に、心が傾いていきました.若く自信が持てなかった私にとって、高橋信次は私を慰めてくれる友達でもありました.
ところで、そんなに高橋信次が好きならば,生前の著作は読まなかったのか?と言われるかもしれません。「人間・釈迦」「悪霊」「心の発見」など、本屋にはいろいろありましたが、実際は、あまり読みませんでした。なぜかと言われると,よくわからないのですが、たぶん私は「霊言の中の高橋信次」が好きだったのだろうと思います.
つまりここでも、私は高橋信次が本人であるかどうかに関心は全くなかったと言えます。生前の著作と霊言の内容をなぜ比べてみようと思わなかったのか?なぜ気にならないのか・・・?これは重要な観点かもしれません。この点については、考えが整理されてきたら、また後で改めてお話ししたいと思っています。
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