2013年12月5日木曜日

太陽の法は私の好奇心を満たしてくれた

 前回まで、太陽の法の旧版と新版の比較を行ったのですが、1987年当時の高校三年生の私にとっては、そのようなことはわかるはずもありません。「太陽の法」では神による宇宙と地球の創造、魂の性質、悟り、アトランティスやムーといった超古代文明の様子などといった、スケールの大きな世界観を説いていました。そこには学校の教科書には載っていない、見たことも聞いたこともない話がたくさん載っていたのです。
 「幸福の科学には高学歴の人がたくさん入っている」という言葉はよく言われました。特に幸福の科学が急成長しているかのようにテレビで報道された時期はそう言われました。会員は、それを良い意味に捉えていました。東大卒の教祖というのは、とても珍しい存在でしたし、受験勉強を肯定し、社会的成功や経済活動を肯定する新興宗教というのは、大学を卒業したいと思っている人にとってはまことに安心できる宗教に思えました。
 しかし一般の人にとっては「高学歴の人が何故、新興宗教に?」という、ネガティブな意味で言っていることが多かったと思います。「幸福の科学?あー、高学歴の人がよくひっかかっているよね」と言われたこともあります。私は「この人はまだまだ新しい宗教に対する偏見があるけれども、幸福の科学は他の宗教とは違う,知的な宗教だということを認めてくださっているのかな」などと我田引水的に考えていました。他人の言葉を都合良く解釈するというのも幸福の科学の特徴です。会員にとっては、「常勝思考」を実践しているつもりなわけですけれど。
 私は最近になって思うのですが、学校という所は、ある意味、信じやすい心を持つ訓練を受ける場所でもあるのではないかと思えます。学校の先生が言うことや、教科書に書いてあることに対して疑問や反発を持つ人は、勉強が遅れます。受験勉強は時間との戦いですから、「呑み込みの早さ」が大事なわけです。勉強の基礎は読解力にあります。私は本をある程度読んでいたので、国語も得意でした。それゆえ、他の科目の問題文も素早く理解することができました。ただし、読む本のジャンルは理科系にばかり偏っていたと思います。
 初期の会員には読書が苦手な人は少ないように思えます。「太陽の法」で書かれていることは、「霊的な世界」の話であるわけですが、その体系化された大量の知識は読書好きな私の好奇心を満足させたのかもしれません。知識は、もっぱら書物から得るのが普通だったし、書物に書いてあることにウソは無いと信じていたからこそ、まるで食べ物を片っ端から食べていくように幸福の科学の本を次々と読んでいくことが可能だったのです。
 しかし私には批判的に書物を読む,という読み方は知らなかった。大人はウソをつくこともあるということや、信用できない人もいる、ということも知らなかった。それどころか、世の中の犯罪者というのは、あのレ・ミゼラブルの主人公のジャン・ヴァルジャンのように、やむにやまれぬ事情があって、心ならずも悪を犯してしまったのである、彼らには同情すべき余地もある、などと考えていたくらいですから、非常に純粋な、ウブな青年だったのを思い出します。先生が言うことや教科書に書いてあることをすんなりと受け入れることができる、という訓練を学校や受験勉強で受けていたからこそ、幸福の科学でも先生=大川隆法主宰先生の言うことを受け入れ続ける姿勢ができたのかもしれません。

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