2013年10月8日火曜日

幸福の科学の信者が持つ世界観

 幸福の科学の霊界論によれば,あの世の世界には時間が存在せず,地獄以外の天国は常に昼間であって夜がなく,霊人は太陽の光を浴びている.この霊界にある太陽は「霊太陽」と呼ばれ,霊人が活動するためのエネルギー源になっている,とされています.5次元善人界の人たちは,この「お天道様」に手を合わせて感謝をしている.これが信仰心の始まりであると言います.この「神様に対する信仰と感謝」が人間の魂を生かしているし,自分が「善の側」あるいは「神の側」の立場に立っていることの条件にもなっているわけです.
 一方,地獄霊は「悪想念」を心から黒い雲のように出しているため,それが霊太陽の光を遮り,4次元世界の一部に真っ暗な地獄界を形成している.彼らは霊太陽からのエネルギーを受けられないため,地獄霊は3次元世界(この世)に頻繁に出てきては,地上の人間に取り憑き(憑依と言います),この世の人間が出す「悪想念」を自らのエネルギー源としている.生前,地獄霊にずーっと憑依されていた人は,例えこの世で幸福そうな生き方をしたとしても,死後は地獄に堕ちることになる・・・.おおざっぱですが,大体このような世界観になっています.
 ですから,信者にとってこの世というのは4次元世界に近いため,非常に悪霊に憑依されやすい世界だと思っています.少しでもイライラしたりすれば悪想念は出てしまうし,それを狙って悪霊もやってきてしまう.心に浮かんだ信仰に対する小さな疑念も,悪想念となるので,悪魔を呼び寄せるきっかけとなってしまいます.
 この世で生活すると言うことは,ちょうど潜水服を着た人が深海に潜って生活するようなもので,中の人が霊に相当し,重たい潜水服に相当するのが肉体です.潜水服を着た人は空気がなければ生きていけないのと同じように,信者は神の光を受けなければ幸福な人生を歩むことはできないと思っています.
 そのため,常に悪い思いが自分から出ないかどうかチェックしているし,幸福の科学の書籍やテープを読んだり,精舎で反省・瞑想をしたり,悪霊撃退祈願をしたりして神の光を受けなければならないと思っています.あるいはリーダー格の信者にとっては神様から受けた光を他の人に与える行為=与える愛の行為が,書籍を他の人に配ったり,月刊誌をポストに配布したり,友達を講演会に誘ったりという行動につながっていくわけです.
 一般の人が信者を理解しようとした場合,この世界観を理解しなければなかなか話が通じないと思います.信者にとって,霊界は身近な世界であり,現実です.「あらゆる出来事の原因・理由を知りたい・探りたい」というのは人間の心の持つ根源的な本能だと私は思いますが,幸福の科学の信者はこの世で起きた様々な出来事をあの世に関連付けて理解しています.つまり,「あの世からの影響が何であるか?」ということを常に意識しているのです.
 一般の人が信者と話をしていて感じる違和感は,あらゆる議論が最終的には「霊界ではこうだから」という,霊能者以外の人には確認のしようがないこと,信じるしかないことに帰着してしまう,そして,そこで議論が平行線となりストップしてしまう,というところから来るのではないかと私は思っています.

2013年10月6日日曜日

当時「あの世」について考えたこと

 1987年は「救世の法三部作」が出版された年でもありました.6月に「太陽の法」,8月に「黄金の法」,10月には「永遠の法」といった具合です.最初、私は霊言集ばかり読んでいたのですが,だんだん読む本がなくなっていったときに,やはり著者である大川隆法の「理論書」にも手を出し始めることになるのは自然なことでした.
 最初に手に取ったのは,「永遠の法」です.これは死後の世界(あの世,霊界)について述べたものです.幸福の科学では「この世」を3次元と呼び,「あの世」を4次元から9次元の世界まで,たくさんの階層に分けています.そして、人間は死後、生前の心と行いに応じた世界に還ると説いていました。
 私はリアルタイムになされる霊言によって、あの世のことをある種のリアリティを持って感じていましたので、その頃はこの本の内容をずいぶんすんなりと受け入れていたかなと思います。ただ、縦、横、高さの3つの次元に加え、第4の次元を「時間」としたのは良いとしても、第5の次元を「精神」、第6の次元を「神理知識」、第7次元を「利他」、第8次元を「慈悲」、第9次元を「宇宙」・・・といったような精神的な要素を当てはめたことにはやや違和感を持ちました。精神的なものはその精神を持った人間が頭の中に思い浮かべるものであって、それが人間の外部にも存在するかのように語るのはいかがなものか。それを果たして本当に「空間」の説明に使えるのだろうか?
 ところが様々な霊言集に登場した霊人の言葉によれば、霊界とは精神の世界であり、見る人によって見え方が異なる主観的な世界であるということでした。そうすると、第5次元以降を精神的な要素で表現するためには、精神的な現象、例えば「想念」とか「表象」、「夢」といったものも、具体的な現実でなければならないのではないか。
 唯識には「一水四見」という話があります。人間にとって川に見えるものは魚にとっては住処であり天人にとっては水晶の床、そして地獄の餓鬼にとっては燃え上がる膿の流れに見える、と。つまり、霊界は主観的な世界だけれども、存在しないわけではなく、必ず認識できるのではないか。もしそうなら、いつの日か、あの世を科学的に解明できる日が来るのではないだろうか、と考えたりしました。あの世の探求と解明―それは、21世紀の大きなテーマになるのではないか?と期待が膨らみました。
 シュタイナーの「いかにして超感覚的世界を認識するか」という本などを一生懸命読んだこともありました。やはり霊界を認識するためには、この世に囚われたものの見方から離れて、あの世を見ようとする訓練をしなければならないのではないだろうか。そのためには、高橋信次先生の言うように「心の曇り」を取り払い、神の光が差してくるような心理的状態になる必要がある。そうなろうとして、家で独りになり、深呼吸をして、反省・瞑想の真似事をしてみたりもしました。
 私は、亡くなった祖父が火葬場で焼かれるのを見ていました。人間の最後の姿は空に立ち昇る煙と、白くなった骨と灰。それで全てが終わってしまうのだろうか。それはあまりにも寂しすぎるのではないか。もしあの世があり、祖父は死後も霊として生き生きと生活し、5次元の世界で幸せに暮らしているとしたら、そのような世界観のほうが楽しくはないだろうか。今まで誰もなしえなかったあの世の証明を、彼はしようとしているのかもしれない。このように考えて、私はますます大川隆法の本を読み進めていきました。