宗教体験について,先ほどネガティブに語った。しかし完全否定はできない面もあるなと思ったので,さらに言いたいことを書こうと思う。
青年だった私も40代半ばを過ぎた。若者は理想を追い求めるが,この年になると人生をどう閉じてゆくかということに想いを巡らさざるを得なくなる。なぜなら,体と精神に衰えを感じ始めるからだ。私の両親は70を超えている。体力的にも精神的にも,きついだろう。私もいづれ,そうなるのだ。
思うようにいかない心と体。いずれ,仕事をする必要もなくなるだろう。そんな中,精神の世界・内面と向き合うことからは逃れられなくなってくる。最後の拠り所は,やはり精神の世界・想像の世界,死の先にあるかもしれない,天国の世界を心待ちにすることなのではないだろうか。その意味で,宗教は人間にとって必要なものなのかもしれないと最近は思うのだ。
あの世は存在しないだろう。瞑想の中で極楽の世界に遊ぶこともできるが,それはおそらく,自分で自分が作り出した妄想なのだろう。
それはわかっている。だけれども,老いるにつれて,現実世界の中に希望を見出すことは難しくなってくる。これまで自分が築き上げてきたものー仕事や家族や友人などーが,一つ一つ崩れてゆくのを目の当たりにせざるを得ないからだ。
釈迦は変化することが世界の本質なのであり,確かなものはこの世に存在しないと言った。しかし,人間にとってそれはあまりにも耐え難い。変化する世界の中にあって,変化しないもの,それが魂であり霊でありあの世の世界なのだ。想像の中で,その世界にどっぷりと浸かる時,心には平穏が訪れる。そのようにして,何千年もの間,いや数万年かもしれないが,人間は静かに死を受け入れてきたのかもしれない。
この話は誰にとっても逃れられない話だ。全ての人にとって,他人事ではないのだ。人は皆,死ぬのだから。