2021年3月10日水曜日

宗教体験と老いについて

 宗教体験について,先ほどネガティブに語った。しかし完全否定はできない面もあるなと思ったので,さらに言いたいことを書こうと思う。

 青年だった私も40代半ばを過ぎた。若者は理想を追い求めるが,この年になると人生をどう閉じてゆくかということに想いを巡らさざるを得なくなる。なぜなら,体と精神に衰えを感じ始めるからだ。私の両親は70を超えている。体力的にも精神的にも,きついだろう。私もいづれ,そうなるのだ。

 思うようにいかない心と体。いずれ,仕事をする必要もなくなるだろう。そんな中,精神の世界・内面と向き合うことからは逃れられなくなってくる。最後の拠り所は,やはり精神の世界・想像の世界,死の先にあるかもしれない,天国の世界を心待ちにすることなのではないだろうか。その意味で,宗教は人間にとって必要なものなのかもしれないと最近は思うのだ。

 あの世は存在しないだろう。瞑想の中で極楽の世界に遊ぶこともできるが,それはおそらく,自分で自分が作り出した妄想なのだろう。

 それはわかっている。だけれども,老いるにつれて,現実世界の中に希望を見出すことは難しくなってくる。これまで自分が築き上げてきたものー仕事や家族や友人などーが,一つ一つ崩れてゆくのを目の当たりにせざるを得ないからだ。

 釈迦は変化することが世界の本質なのであり,確かなものはこの世に存在しないと言った。しかし,人間にとってそれはあまりにも耐え難い。変化する世界の中にあって,変化しないもの,それが魂であり霊でありあの世の世界なのだ。想像の中で,その世界にどっぷりと浸かる時,心には平穏が訪れる。そのようにして,何千年もの間,いや数万年かもしれないが,人間は静かに死を受け入れてきたのかもしれない。

 この話は誰にとっても逃れられない話だ。全ての人にとって,他人事ではないのだ。人は皆,死ぬのだから。


2021年2月24日水曜日

宗教体験について

 皆さん,お久しぶりです。久々の更新です。お付き合いくだされば幸いです。

 はっきり言って,大川の予言は外れている。言っていることはコロコロ変わっている。支離滅裂だ。それでも,熱心な信者は宗教を辞めようとしない。なぜだろうか?

 その一つの理由は、いわゆる「宗教体験」にあると思う。そして、教祖が「信仰が大切である」と事あるごとに口を酸っぱくして言う理由も、この宗教体験をするために必要だからだ。幸福の科学の信者は支部・精舎と言われる施設で瞑想の指導を受ける。今日はそのことを話そう。一般の人にとって、宗教体験とは何か特別な体験だとのイメージがある。信者時代,私も何か特別な体験だと思っていた。でも本当はそうでもないのだということも話そう。

 最初は半信半疑なのである。私も自分には霊感はあまりないと言っていた。やり方は,次の通り。場所はどこでも良いが,静かなゆったりとした音楽が流れる場所で,まず座る。呼吸を整えて,心をリラックスさせる。「正心法語」というお経のようなものを唱えて精神を集中させる。目を閉じ,「導師」の誘導によって外界から自分の内面へと意識を向けさせる。

 この最初の一連の流れは催眠術と似ているが,テレビで見るような魔法のようなものじゃない。催眠術もかかりやすい人とかかりにくい人がいるが,それは信じやすいか,そうでないかの違いでもあるのだろう。私はどちらかというと催眠術にはかかりにくいほうだった。というのは,できるだけ客観的にものを見ようと考えていたからだと思う。これは信じにくいということではなく,むしろ霊的な存在は深く信じていた。ただ,瞑想の中で守護霊を「客観的に」認識したいと思っていた。

 目を閉じ,時間をかけて自分の内面へと関心を移してゆく。そしてまず最初は自問自答から入ってゆく。「あなたにとって〇〇とはなんですか?」みたいな考えさせるような問いについて考え,自分で答えを出してゆく。自問自答であるから,問いに対して帰ってくる答えは自分が作り出したものだ。それはわかっているのだが,幸福の科学理論で言うと守護霊は自分自身の魂の一部であって天上界にいる自分の過去生の魂であるということになっている。だから,自問自答を繰り返しているうちになんだか自分が守護霊と対話しているのだと言う感覚になってくるのだ。

 講師がよく言っていたが,教義をよく学んでいるほど,守護霊とよく同通すると言う。教義とは,人生の悩みに対する,幸福の科学が示すある種の回答例だから,それをよく学ぶほど,幸福の科学的な考え方がわかるようになってくる。例えば,人生の試練はあの世で計画していたのだ,だから逃げずにその問題に取り組まなければならないのだ,とか,嫌いな相手は実はあの世で一緒に生まれて魂を磨こうと約束してきた相手なのだ,とか。

 そういうことを学んでいると,自問自答で出てくる答えというのは,幸福の科学的なものになってくる。研修会では守護霊や天使の活躍を描いた映像を見せられることもある。そのような映像を見た後に瞑想に入ると,天国の情景さえ思い浮かべることができるようになっていく。光り輝く存在が,自分に語りかけてくる・・・そして慣れてくると,その存在が,自分のためにアドバイスをくれたり,自分のために悩んでくれたり,泣いてくれたりするのだ。

 もちろん最初は,これは自分自身が作り出した想像であることは十分わかっている。しかしそのような体験を繰り返していくうちに,次第にこれは天使からの働きかけ,そして自分が信仰している神である「主・エルカンターレ」から自分だけのためにアドバイスを頂いた,という気持ちに誘導させられてゆくのだ。

 そこには客観的なものは何もない。全ては主観的な体験であるのだということは理解はしている。だけれども,全ての魂は主・エルカンターレから流れ出し,分かれたものである,という教義を学んだ信者は,主観的な世界を客観的な霊的世界であると信じてしまう。それは,冷静な理性の世界ではなく,感情を伴った感性の世界である。人は正論では動かない。そうではなく,感情を動かされるものに惹かれ動かされるるものだ。現実の人間世界では得ることができない無条件の愛が,この理想的な世界では得られる。あの世では思えば何でも可能であるという。障害を持った重たい肉体に苦しんでいる人も,魂が綺麗であればあの世では自由な霊体を持つという。それは苦しい現実の中を生きている信者さんたちにとって,唯一の心の拠り所であり幸福の源泉なのだ。

 自作自演であることは百も承知なのである。だが,この宗教体験を事実であると認識すると,現実世界の方が事実とは異なるということになってくるのだ。それはそうだろう,現実と想像は違うのだから。そして,想像の世界の方が美しく,愛に満ち,欠けることがない。この想像力,あるいは理想を追い求める心こそ,人間だけが持っている能力で,その力を使って人類は集団を形成して地球を支配してきたのだとすら思う。

 宗教体験という名の自作自演,これを繰り返すことによって自分で自分を納得させている。だから、決して教祖に騙されているのでは無い.自分が自分で自分を騙してゆくのだ。これが宗教体験の正体。だから、宗教をやっていると抜けることが難しくなる。外部の情報に耳を傾けなくなっていくから。独りよがりの意見を述べ、他人の気持ちがわからなくなってゆく。

 確かに,人生には辛いことが起きる。その理不尽な現実を受け止めきれない,理解できない時がある。そんな時,宗教体験はその人を救ってくれる。だけれども,現実を変える力はないのだ。「私は変わった」という体験談ばかり聞いてきたかもしれないが,あなたの現実は,ここ10年間で少しは変わっただろうか?心の傷が癒えたのなら,想像の世界から現実の世界に戻ってくるしかない。そうせずに,死ぬまで,あるいは死んだ後も,現実には存在しない,その理想的な世界で生きてゆきたいと考えているのが,信者さんたちなのだ。