パソコンの故障により、長らく更新が止まっていましたが、このたび、新しいパソコンを購入しましたので、久しぶりに更新しようと思います。
人間というものは、投資をすればするほど、その投資が回収されるまであきらめきれないものです。これはパチンコの話であればわかりやすいです。一度、パチンコでチューリップが開いた経験があると、その経験をもう一度味わうのを期待して、何度も何度もパチンコ屋に通ってしまいます。いくら損をしても、「いつか取り返せる」という希望があるかぎり、一生懸命「努力」してしまうのです。その他のギャンブルも、お金が無くなれば無くなるほど、どうしても短期間に多額のお金が必要になってくるので、「一発逆転」を心の底から願ってしまうのです。
ネズミ講(無限連鎖講)についても同じ心理がはたらくといいます。これは現在法律で禁止されていますが、これに非常に類似したマルチ商法あるいはマルチまがい商法は一般的な商取引と区別が困難であり、法律の網を巧妙にかいくぐっています。私は専門家ではないので、詳しいことはわかりませんが、この商法の特徴はピラミッド型の組織を作り、上位会員が下位の会員から金銭を吸い上げる仕組です。
マルチ商法の組織に勧誘された会員は、上位組織から仕入れた商品を勧誘した何人かの下位会員に売って報酬を得ます。販売成績が良いと上のランクに上がり、報酬が増える仕組みです。しかし、この仕組みは理屈の上では可能なように見えても、実際は実現不可能な仕組みなので、必ず下位会員は利益を得ることができず、いくら努力しても上位会員に金銭を吸い上げられるだけになってしまうことがわかっています。下位会員が利益を出すためには常に新規会員を勧誘しなければならないのですが、勧誘できる人間は限られているからです。
マルチ商法にハマっている人は「販売成績を上げるには?」とか「会員を勧誘する秘訣とは」とかいった名前の有料セミナーに参加したり、DVDや教材を買ったりするなどしてどんどんお金を上位組織に供給してゆくのです。幸福の科学は、このマルチ商法の仕組みを宗教に応用し、組織の頂点に向かって流れ込む金銭の流れを作り出したものと思われます。ただし、巷のマルチ商法では、しばらく時間がたつと下位会員は損ばかりすることにある程度気が付くことができるようです。これは金銭をモチベーションとした人々を対象としているから、比較的短期間に儲かるかどうかがある程度ハッキリしてくるのでしょう。
ところが非常に巧妙なことに、幸福の科学では金銭そのものをモチベーションとしてはいません。「感謝」とか「光」とかといった精神的な概念が上位組織に流れるようにし、その流れの中に金銭を組み込んでいるのです。例えば、お金を上位組織に渡すことを「主への感謝の念いを形にする」とか「執着を断つ修行」とか称して本質が見えないようにしています。また、それに対する見返りのようなものとして「霊的な光の供給」や「幸福感」といった実体のないもの、あるいは「様々な経典・教え・法」を与えていると信じ込ませています。
幸福の科学における「商品」は目に見えない「教え」とか「霊流」とかに相当します。原価が完全にゼロなのです。幸福の科学の霊界論は完全なピラミッド型構造であり、それを信者組織にも適用してお金を吸い上げる仕組みを作っています。これは非常に巧妙な「マルチ商法」であるにもかかわらず、宗教を名乗り「霊的」なことに目を向けさせることで、実は非常に即物的な商法であることを隠しているのです。熱心な信者はお金に執着はありません。植福をし続けて老後の蓄えが無くなったとしても、保険を解約したとしても、親から相続した大切な土地を失ったとしても、霊的な(実体の無い)価値に目を奪われている限り、自分の置かれている危機的な状況に気が付かないのです。
自分では全く気がつかない。ハマっていることさえ気づけない。宗教における「努力」は死んであの世に帰ったときに報われる。もしそうなら、信者は生きている間、死ぬまで、その投資を回収することはできません。もし投資を途中で止めたら回収できなくなるのであれば、主への感謝、努力あるいは修行という名の投資を途中で止めることはできなくなります。やればやるほど、止められなくなる。なぜなら、既に何百万円も投資していて今更やめられないからです。こうなれば、何があっても、もはや前に進むしかない。たとえ教祖や教団に不祥事がたくさん起きたとしても、信じるしかない。自分に都合の良い解釈をするしかなくなるのです。信者が損害を受けても、これは試練だとか神仕組みだというふうに受け止めるので、組織からすればこんな都合の良いカモはありません。
この一生続く「植福の連鎖」の中から脱出する方法はただ一つ、何の根拠もない「霊的な説明」を止めることです。これは自分自身を騙すための言い訳に過ぎないのです。そして、「長い間、何十年間も、自分は騙されていた」という事実を、素直に認めることです。