2014年11月26日水曜日

ある職員さんが体験したこと

私が昔、学生部で活動していた頃、東大の駒場祭で学生向けの講演会がありました。

「黎明の時代」と題する講演会で、1991年頃のことだったとおもいます。

当時大川隆法は総裁ではなく「主宰」と呼ばれていました。

その中で、21世紀に来たるべき未来社会では、宗教家が最も尊敬される職業になるだろう、という話があったかと思います。

たしか「ユートピア創造論」という書籍にも、似たような話があったかと思います。

学生部の間では、幸福の科学の職員になると言うことは憧れであり、希望でした。

人生の大学院・幸福の科学。今はまだ小さな組織だけれども将来は世界を救うようになる。

大企業に入って自分の才能を埋もれさせるよりも、この幸福の科学に入って、才能を発揮したい。

私は職員にはならなかったけれど、大学卒業と共に、夢と希望を持って幸福の科学の職員になった学生部の仲間たちが数多くいました。

彼らはどうなったのだろう。 今、どこにいるのだろう。

いずれにせよ、1999年に起こると言われた地球規模の天変地異を回避するために、大伝道の中を駆け抜けたはずです。

親戚・友達・近所・町内会に至るまで、あらゆる縁故を伝って、この世界が滅びる前に「霊的世界の実在を伝えたい」と思って昼夜を問わず活動したはずです。

「何言ってんの?お前は騙されているんだ」「宗教?うさん臭いなあ」「もう書籍を送るのはやめてくれ」「ごめん、もう友達じゃないから・・・」

そんな声を何度聞いたことでしょうか。何度くじけそうになったことか。

妻や親戚が活動に反対し、遂には離婚せざるを得なくなったこともあったでしょう。

別れるときにみせた、元妻のあの悲しそうな顔が、脳裏から離れないときもあったはずです。

その度に、必死に涙をこらえながら主に祈りを捧げ、このエル・カンターレ信仰を守ろうと、自らを奮い立たせてきたはずなんです。

そうして、支部長や精舎の館長として実績を作り、様々な出会いと縁の中で、総合本部に異動する機会を得た職員、

主のお側近くで働けるという、この上ない喜びを得ることができた本部職員もいらっしゃるでしょう。

そして中には、大救世主と直接お会いし、数千年に一度しかない、霊天上界から高級霊・内村鑑三の霊言が降ろされる、まさにその歴史的現場に、インタビュアーとして参加を許された人もいるでしょう。

霊言の収録前、その奇跡の瞬間に臨んで、控え室で緊張しながら質問内容を一つ一つ確認したかもしれません。

そんな、ある職員が、長い長い信仰の道を歩いてきた、その果てに体験した出来事を、以下に示します。

経典:内村鑑三「信仰・学問・迫害」を語る より
斎藤 私たちを叱るとしたら、どこが問題なのでしょう。これは自己保身なのでしょうか。「現実を解釈してしまう」と言っていましたけれども・・・。  
内村鑑三 さっき来世の話もあったけど、来世は後悔することになるから。間違いなくね。だから、今、私が代わりに言ってやってるんで。 
必ず来世は後悔するよ。  
実際は、信仰の不足が現実の届かざるを招いた」ということが、いずれはっきり分かるから。 
だけど、「信仰が不足してるために、現実が届かない」ってことが理解できてないから、今、政党をやったり、大学をやったり、いろいろなことをしてそれを気づかされてるのよ。現実はね。 
届いてないことが気づかされてるんだけど、それをまた「解釈」で逃げようとしているからね。たぶんね。 
斎藤 「今のこの現実は、われわれの足りないところを教えてくれている」というか、それを示しているのだけども、まだ受け入れられない?  
内村鑑三 うん。要するに、「プロの仕事のレベルまで達してない」っていうこと。 
斎藤 はあ・・・。  
内村鑑三 君らは、「小学生が給料をもらっている」ようなもんだからさ。基本的にはね。 

これが、本当に、天上界から私たち弟子を見守ってくださっていたはずの高級霊の言葉なんでしょうか?

幸福の科学のために、全てを捧げてきた弟子達に対する言葉が、これですか。

あまりにも、ひどすぎるんじゃないでしょうか。


2014年11月23日日曜日

総裁は二枚舌を使っている

「総裁は時と場合によって言うことがコロコロ変わる」というのは、昔から言われていたことだし、本部からの指示は朝令暮改どころか「朝令昼改」だし、総合本部・支部長・実現党・学園に至るまで、その人事はめまぐるしく変わります。

そのことは信者としても十分わかっていましたし、最初は戸惑うこともありましたが、今ではもう慣れっこになっています。

ここにも感覚の麻痺があるんですが、信者としては「総裁先生は相手の悟りを見て話の内容を変えられる」とか、「イノベーション」「体系的破棄」「諸行無常の原理」「霊速のご判断」などという、これまた様々な理由で説明され、自分自身を納得させています。

ですから、総裁が矛盾したことを言っても全然気にならなくなっているし、不思議にも感じません。

総裁の「不合理なれど我、信ず」とか「考える必要はありません、ただついてきなさい」などいう言葉の響きだけに酔ってしまっている人は、もはや「自分で考える能力」を失ってしまっているのです。自分が「木偶の坊」になっていることさえ認識できなくなっているのです。

そのような信者さんに何を言っても無駄であることはよく承知してはいるのですが、あえて私は、信者さんたちが「矛盾した言葉」によってその心を束縛されていると言うことをお伝えしたいと思うのです。

そのような例はいくらでもありますが、例えば以下の2つの文章の内容を、自分自身でゆっくりと考えてみてください。

1 大川隆法著「社長学入門」

自分で考え、発案し、実行したことは、その結果に対して責任が生じます。その責任を受けて立たなければいけないのです。そういう意味で、社長が、「すべては私一人の責任だ」と思っているからこそ、部下に対して、「かくあるべし」という要望ができるわけです。
(中略)
ところが、上司が責任逃れをするために「おまえがやれ」と部下に言っているように感じたら、部下のほうは、やっていられないでしょう。「私のほうを部長にしてもらわないと、そんな仕事はできませんよ」と思うことになります。その意味で、部下をよりよく使うためにも、上の立場にある者、すなわち、社長、経営者、経営管理者、経営担当者などは、まず、「自分に責任があるのだ」と考えなくてはなりません。

2 内村鑑三「信仰・学問・迫害」を語る

内村鑑三 だからね、君らは「非常識」なのだよ。 
斎藤 えっ、非常識!? 
内村鑑三 うん。非常識なんだよ。 大学があれかもしらんけどさ、審議会の人が言ってるあれじゃないけども、「弟子がもっとちゃんとやれ」って言ってるのは常識的な立場なんだよ。本当はそうなんだよ。やらなきゃいけないんだよ。 
弟子が"神輿”を担がなきゃいけないんだよ! 
だけど、神様が神輿を担いでる。それで弟子が神輿の上に乗ってるんだよ。これが幸福の科学の現状なんだよ。 
それを外から指摘されてるんだけど、分かってないんだからさあ。情けないかぎりだわ。 
神輿のなかにいる神様が下りてきて神輿を担いで、弟子が神輿の上に乗ってる。これが現状じゃないか!

総裁は「社長学入門」の中で、上の立場にある者はまず「自分に責任があるのだ」と考えなくてはならない、と言っています。ところが内村鑑三の霊は「大学が認可されなかったのは弟子が非常識だから」と言っています。

しかし、本来ならば「トップである総裁自身に責任がある」と考えるべきではなかったのでしょうか?ここに大きな矛盾があります。

信者さんなら、「内村鑑三霊と総裁の考えに矛盾があってもおかしくない」と答えるでしょう。

また、「総裁は責任を十分感じておられるが、そのことを弟子はわかっていない。だから、あえて内村鑑三は厳しい言葉を弟子にかけたのである」と、考えることと思います。

そういう考えを取ったリーダー信者さんは、次にどう考えるようになるでしょうか?

「大学が認可されなかったのは、私たち弟子の信仰心が足りなかったからである、その責任は支部リーダーである私にもある」ということになってくるでしょう。

このようにして、信者は矛盾した言葉の板挟みになり、自縄自縛の状態になってゆくのです。
そして、これまで以上に多額の植福をしたり、勝てる見込みの無い政党活動に励むようになります。

いったい、信者はどれだけお金を出せば、または、いつまで自分を犠牲にすればよいのでしょうか?

在家信者の中には、活動のために土地や財産を手放したり、職を捨ててしまったり、離婚してしまった人もいるのです。
しかし、幸福の科学はそのような人たちに「おめでとうございます」とか「尊い信仰心ですね」という言葉をかけるだけであって、その後はなんら具体的なサポートはしないはずです。そのことは、信者さんなら、よくわかっているでしょう。

そんな奴隷のような人生が人間としての本当の生き方なんでしょうか。
それが、本当の幸福なのだと、本当に心から、そう思えるのですか?

私は2年ほど前、いろいろなことを調べているうちに、「失敗は全て弟子が悪い」という考えが総裁の本心なのだ、ということに気づきました。

そのとき、全てを理解したのです。

総裁は二枚舌を使っていたのだ、ということを。

霊言は最初からウソだった、ということを。

そして、私は20年以上、詐欺の片棒を担いでいたのだということを。

2014年11月16日日曜日

エル・カンターレは本当に「魂の親」なのか?

信者の方は、「主エル・カンターレはすべての人類の魂を造られた、魂の親である。したがって、すべての魂は主の慈悲によって生かされている。私たち信仰者はその主の慈悲への報恩として、お布施をさせて頂いているのだ。これは尊い機会であり、感謝すべきことなのだ」と考えていることと思います。

こういう文章を読むと、信者さんにはあるイメージが湧くのです。精舎で見たイメージビデオの映像が、目の前にパーッと展開していきます。

私の場合は、こんな感じです。天上界の主エル・カンターレから流れてくる圧倒的な光の霊流。その光が、地上にある一人一人の人間の魂に入っていき、人々が生かされ、幸福に暮らすことができる。私たちが感謝の心でお布施すると、その感謝が光の玉となって、主へと戻って行く。主はそれを見られて慈愛の眼差しで私達を見つめ、祝福してくださる…

この、白昼夢のようなイメージを現実として捉えることが、信者さんたちの「霊界はある、あの世はある」という確信を裏付ける理由となっています。これは一種の自己暗示なのです。

さて、よく考えてみると、信者さんと総裁の間には親子関係とよく似たものがあることがわかると思います。

これが、総裁への批判が、まるで自分が批判されているように感じてしまう理由だと思われます。一般の人が総裁への批判をすればするほど、信者さんは、まるで自分の親を悪く言われているように感じて、傷つくのです。

この親子関係の投影は、人間の持つ根源的な心の動きであって、なかなか根深いものがあります。普通に考えれば、親は子を庇護し、社会から護るものであって、子供に金銭を要求しないものなんですが、そういう親に恵まれなかった人もいると思われます。

中には、子供がアルバイトで稼いだお金を「親には感謝しなきゃいけないよ」と言って差し出させ、自分のタバコ代にしながら、「親孝行ができてお前は幸せだね」などと言う冷たい親もいます。

そのような親に育てられた人は親の愛情に飢えているので、宗教で癒しを求めることになるのだと思います。ですから、そういう場合はこの自己暗示から目を覚まさせることは、容易ではありません。

お金を要求しない親なんて考えられないわけですから。

私は信者さんに言いたいのですが、神の愛は与えきりではなかったか、ということです。愛情のある親は、子供に働かせ、さらに金銭を要求するなんてことはありません。

皆さんは、反抗期があまりなかったのかもしれません。私はなかった。しかし、反抗期は子供が親の影響から抜け出し、真に自立した大人になるために必要なことです。

魂の親が用意してくれるという「天国への道」は、自分勝手な親が用意してくれた「東大合格への道」でしかありません。それは、必ずしもあなたが本当に望んだ人生ではないのかもしれないんです。

「主のために人生の全てを捧げます」と誓ったのはなぜなのか、あまり覚えていないでしょう。それをよく思い出してみるならば、親に言われるがまま猛勉強し、テストで100点を取るという結果を出さなければ親に自分を認めてもらえない、と考えていたからではないでしょうか。

しかし、本当の親の愛情とは、そんなの関係ないんです。子供が働かなくても、お金を差し出さなくても、感謝しなくても子供を愛しているんです。親を信じる良い子だけがかわいいのではないのです。「父さん、説教ウゼーよ」と言われても、子供の幸せだけを願うのが本当の親の愛だと思うんです。

あれをしろ、これをしろ、と言われるがままの人生ではなく、自分の人生を生きる方が、はるかに幸福なのではないでしょうか。

2014年11月15日土曜日

もう、人に聞くのはやめよう。自分で考え、自分で決めよう。

幸福の科学の信者さんは基本的には真面目です。でも、真面目すぎて他人に振り回されやすいんです。

何か問題があると、すぐに幸福の科学の見解を求めてはいないですか?

支部長や精舎の館長に人生相談ばかりしてませんか?

精舎や支部の研修で、瞑想中に守護霊や天使、高級霊や主エル・カンターレと会っては「私はどうしたら良いでしょうか?」と聞いているのではないでしょうか?

そうしているうちに、皆さんは自分の感覚や感じ方、考え方がよくわからなくなっていきます。

そして、講演会や研修や映画の感想を聞かれても、「すごく素晴らしかったです!」としか答えられなくなってくるのです。

答え方がワンパターンになっているのに気が付いているでしょうか?

「どんなところが素晴らしかった?」とか、「どう思う?」と聞かれても、うまく答えられないことはありませんか?

たいていの場合、「圧倒的な光が…」「愛を感じた」「涙が出た」といった、フワフワとしたイメージで答えがちになっているはずです。

みんな同じような感想しかないのですが、本来は皆、人間ですから個性があり、感じ方も違うはずなんですよね。

長い間、自分の気持ちを無視して褒め称えることばかりやっていると、自分に不利なことや、本当はやりたくないことまで、やらざるを得なくなってきます。

幸福の科学大学は、大学資格が得られない無認可の「大学校」として開校するようですが、本当にそんなところに大切な自分の息子や娘を入れたいのでしょうか。

あまりよく考えたことはないはずです。

自分の感覚に正直になってみませんか。

あらゆる角度からしっかりと問題を検討し、自分自身で考えてみる。そして、自分自身で決断して行動するんです。

もう、人に聞くのはやめよう。自分で考え、自分で決めよう。精神的な自立をしよう。

勇気を出して「私は無理だと思う」「私はやりたくない」と言ってみましょう。

そのとき、あなたの周りの「法友」だと思っていた人たちが、実はあなたのことを本当に考えてくれる人ではなく、ただ単に自分の「信仰」のために伝道者数を増やしたいだけだった、参加者数を増やしたいだけだった、植福目標を達成したいだけだった、ということがわかってきます。

要するに、あなたをコントロールしたいだけだったということが見えてくるはずです。


2014年11月13日木曜日

裸の王様

むかしむかし、新しい服が好きな王様がいました。

そこに、二人の詐欺師が布織り職人と称してやってきました。

職人たちは、「馬鹿には決して見ることができない」不思議な布地を織ることができると人々に信じ込ませました。

王様は喜んでこの珍しい布地を注文し、大金を支払って服を作らせることにしたのです。

職人は何週間もの間、機織り機を動かすふりをし、一生懸命、服を作るふりをしました。

完成した服を見に来た王様は、服が見えないことに困惑するのですが、家来達に馬鹿だと思われるのが怖くて服を褒めることしかできません。

家来達も、自分たちが馬鹿であると思われるのが怖くて、やはり服を褒めるばかりです。

王様は見えない服を着て行進パレードに出たのですが、見物人達も自分たちが馬鹿であると思われるのが怖くて王様の服を褒め称えます。

ところが、その中に子供がいて、「王様は裸だよ!」と叫びます。

そして子供の言葉は人伝いにひそひそ伝わって、やがて民衆のほとんどが「王様は裸だよな」と言うようになってしまいました。

王様はそれを聞き、困ってしまいました。王様だって自分の服が見えないのです。

でも、「いまさら行進パレードをやめるわけにはいかない。」と思ったので、そのまま、今まで以上にもったいぶって歩きました。

家来たちはしかたなく、ありもしないすそを持ちつづけて王さまのあとを歩いていきました。



信者の皆さん、あなたは「信仰心が無ければ見ることができない服」を着てはいませんか?

「あなたは信仰心を失った」と言われるのが怖くて、見えない服を褒め称えていはいないですか?

十何年も信仰を続けたんだ、いまさら信仰を捨てるわけにはいかない、と思っていませんか?

公開霊言とは、この職人が一生懸命服を作るふりをするのと同じです。

あなたは、見えない服に大金を支払っているんです。

「王様は裸だよ!」と言われるのは嫌だと思いますが、そう言ってくれる家族や友人は、あなたのことを本当に心配してくれる、あなたにとって最も大切な人なのです。

2014年11月11日火曜日

幸福の科学の宗教行事は金銭感覚の麻痺を引き起こす

私が以前行っていた支部では、会員向けに支部メールが送られていました。

その中では、「○○さんが未来大繁栄植福を一口御奉納され、未来大繁栄信者となられました!」とかいった情報が流れていました。

植福とはお布施のことで、この「一口」とは5万円とか10万円とかいったレベルだったと思います(未来大繁栄植福はいくらだったのかは忘れました)。

このようなイベントは毎年、毎月、繰り返されます。たぶん、他の支部でも似たようなメールが会員の間を回っていると思います。


毎回10万円単位で植福しているのは支部に来ている一部の会員で、さらにその中の一部のリーダー会員は100万円単位の植福をしています。

例えば、昨年のメールを見ると「100万円以上の植福を幸福の科学大学にした会員は、大学の正門前に立つ2本のオベリスク(記念碑)に名前が刻まれます」と呼びかけています。

その結果、私の支部では6名程度の人が植福したようです。


このような植福は強制ではありませんが、幸福の科学の行事に参加すると色々なプレッシャーがかかってきます。

例えば、「大学成功の集い」が開催され、多くの会員が集まってきます。あまり気乗りしない信者でも、誘われると断ることができないような人は参加します。

その集会では、会員同士で円陣を組んで座り、他の人の「決意」を聞きます。


そうすると、「あの○○さんが100万円の植福を決意したのだから、私も10万円くらいはしなきゃ悪いかな・・・?」という感じになってくるのです。

もちろん「私はお金が無いからできない」という信者もいますが、そのような人はあまり支部にも来ませんし、集会にも出ません。

人間関係を円滑にするためには、ある程度周りの会員さんと同じ行動をしなければならない、という考えを持つ「いい人」が、このようなイベントに巻き込まれてゆくのです。


そして最後は「億菩薩誓願」というものをしたりします。これは「私は億円単位の植福をします」という決意を仏像の前、他の人の前で行うのです。

「誓願」というのは「誓い」あるいは「願い」という意味なので、本当に植福しなくても良いし、できなくてもだれも責めないのですが、みんなの前で誓った本人の中では、だんだん「お布施させて頂きたい」という気持ちが大きくなってゆきます。


そして、その誓願した人たちのうち、一部の人が100万円単位の植福をすることになるのです。彼らは「100万円はまだまだ少ない、1億円できるまでがんばるぞ」と考えているのです。「Think Big !」という言葉が、彼らの心を煽っているのです。

あるメールでは、以下のようなことが書いてありました(実名は伏せ字にしてあります)。

◎◎さんのイイシラセ♪
当初、一口も出来ないと御自身で考えられていた◎◎さんに一つの奇跡が起こりました♪
先日の暴風雨で転倒され、骨にヒビが入る大怪我をされたそうなのですが、怪我に対しての保険が降りたそうで、なんとその金額がちょうど一口分だったとのこと♪
それは偶然ではなく、◎◎さんは毎日のお祈りの中で、明るく積極的で建設的な思いを言葉に出され、なりたい自分を強くイメージングされて、富の法を実践されていらっしゃいました♪
今回は本当に思いもよらないところからだっ たそうで、まさに怪我の功名?らしく、ただでは転ばないと仰られておりました♪
◎◎さんの主のお役に立ちたいという強い思いによる信仰心、また日々のたゆまぬコツコツとした努力に対して、天上界から投げかけられた光が形となって現れた奇跡だと、お話をお聞きしながら感じさせていただきました♪
◎◎さんの信仰心に、心より祝福申し上げます♪

要約すると、◎◎さんが転倒して怪我をし、その保険金をケガの治療に使わずに植福に回した、という話なのですが、私はこれのどこが奇跡なのか、わかりません。私は当時信者だったのですが、それでも軽く退きました。文面は表面上明るいかもしれませんが、その内容は人の不幸を喜ぶかのような冷たさが漂う文章だと思います。

この骨にヒビが入るくらいの大怪我は治療しないのでしょうか?しかも、10万円か100万円かはわかりませんが、そのお金を失っているのです。そのようなことを繰り返せば、やがて老後の蓄えを失うと思います。

この方は私も知っていますが、決して若くありません。いったい、将来どうなるのでしょうか?おそらく、幸福の科学はこの方がお金が無くなるか体を壊して支部に来れなくなったら、そのまま放って置くことになると思います。「あの人最近来なくなったね」と言われて終わりでしょう。なぜなら信者は今だけは「心から祝福」していても、次々とイベントをこなさなければならないため、1年もすれば昔の功労者など忘れ去ってしまうからです。

もちろんこれを読んだ信者の方は「植福をすれば天国に還ることができる」と説明するのでしょうけれど、その世間とは大きくかけ離れた感覚が、自分も知らないうちに他人を不幸にしているということを自覚してほしいです。

2014年11月9日日曜日

幸福の科学大学の設立にお布施した方へ

中には10万円単位、100万円単位でお布施した方々もいらっしゃるでしょう。

皆様は「自分は良いことをしている」と思ってお金を出したはずです。

もちろんお金を出すこと自体は悪いことではありませんが、それだけで良い行動であるとは言い切れないのです。

その行為を良いものにするためには、まだ行動が不十分です。

お金を出した人は「そのお金が本当に正しいことに使われているかどうか」をよく確認し、チェックすることが必要です。

社会では、寄付を受ける側はそのお金の使途を明らかにする義務があります。

大学を作るためにいくら必要で、あといくら足りないのか。その計画性は十分かどうか。

今、どのくらい集まっていて、何のためにどのくらい使っているのか。その使い道は妥当であるかどうか。

そういったことを公表する義務があります。そうしなければ、そのお金が目的以外に使われたり、無駄なものに使われる可能性があるからです。

もしそうなった場合、お金を出した側は目的にかなった使い方をするよう相手に求めるか、あるいはお金の返還を求める義務があります。それが社会のルールです。

だから、もらったお金の使い道を公表しない団体は、それだけで不誠実であると言えるのです。

幸福の科学はお布施の目的は示してくれますが、その使い道の詳細を(数字で)明らかにしたことは一度もありません。

これは社会から見れば極めて不誠実なことなのです。

もし今言ったことを聞いて、「寄付と布施は違う。宗教はビジネスではない。宗教性が大切である。」とか「主が創られた団体を信じていない。信仰心が無い。」だとか「見返りを求めてはいけない。それは執着だ」などという考えが頭に浮かんできた人は、あまりにも幼稚で社会的な常識がなさ過ぎます。

そういう人は、そのお金が悪いことに使われたときに、その悪いことをした組織の共犯者になる可能性だってあります。そういう可能性をなくすためにも、お金の使い道について厳しくチェックする責任があるのです。

私も、学生時代から幸福の科学の考え方で生きてきたので、30代後半まで、本当に社会のことを知らなすぎました。

「世の中が良くなるためなのだから、お金を出すことは良いことだ」という単純な考え方が、かえって自分が知らないところで悪を生む原因になることもあります。

お金を出せば、それで終わり、なのでは無いはずです。行動には責任を伴うのです。

もし本当に世の中を良くしたくてお金を出したのであるならば、どうしてそのお金が正しく使われているかどうか確認しないのですか?

そのような行動をとらない人が、「自分は正しいことをしている」と主張することは、自分に嘘をついていることになります。

もし「幸福の科学は正しいことのためにお金を使っている」と主張するならば、その根拠を書類で、数字で示す義務があります。そのために領収書というハンコ付きの書類が存在するのです。

そのような証拠が無いまま動いた金のことを世間では「使途不明金」と言うのです。

2014年11月7日金曜日

幸福の科学は「報告の科学」


時間順に私の経験をお話ししようと思って始めたブログですが、頭の中が整理できていないので、なかなか更新が続けられていません。

ですので、時間順にこだわるのはもうやめて、気の向くまま、思い出せることを断片的にそのまま書いてゆこうと思います。


幸福の科学の組織運営に、疑問を持っている会員さんは多いと思います。

私も、だいぶ前から疑問に思っていました。


幸福の科学は会員がたくさんいると言われていましたが、いつも支部に来る会員はごく少数の人たちだけでした。


昔、私が青年部長をしていたとき、支部の青年会員さんたちを誘い活動に参加させ、一時期盛り上がったときがありました。

私は一人一人の思いや気づき、情熱や幸福感を大切にし、悩みを分かち合い心が通い合うようなサンガ造りを心がけていました。


支部に若い人がたくさん集うようになったのを聞きつけたのでしょう、本部からファックスで連絡が来て、様々な講演会や集会への参加者の報告をするように言われるようになりました。

最初は言われるがまま報告していたのですが、やがて参加者数や購入数や確約数・献本数などといった数字の報告が義務となり、それに追われるようになっていったのです。

ファックスから伝わってくるのは、数字のみ。会員たちがどんな気持ちで活動しているのか、どれだけ爪の先に火を灯しながら、少ないお金の中からお布施を出しているか。他の人からの嘲笑に耐えたり、孤独に耐えたりしながら献本や小冊子の配布などをしているのか。

そのようなことを報告するような欄は一つも無く、ファックスには数字だけを期限までに報告しなさいと書かれていました。


私は総合本部からなんとなく冷たいものを感じ取っていましたが、会員は仏・法・僧に帰依しますという誓いをしていました。

幸福の科学の組織は僧団なのだから、そしてその僧団は仏が創ったものなのだから、その方針に従わなければならないと、考えていたのです。

しかし、そのような数字の報告をしているうちに、私は他の青年会員さんに会ってはイベントに参加するかどうか、献本するかどうか、いくらお金をだすか?などといったことばかりを相手に聴かなければならず、相手の気持ちを聴くことがだんだんできなくなっていったのです。

やがて青年会員さんは一人、また一人と支部に来なくなりました。

それは、私が相手の心に関心を持てなくなり、数字だけが私の関心事の中心になってしまったからだと思います。

私は支部に来なくなった人を悪の勢力に負けたと考えました。そう、教えられたからです。悪霊に憑かれた人は、支部に近寄ることができなくなる、と言われていたからです。

再び、ごく少数の人しか支部に来なくなる時期がやってきたとき、「ああ、私に会いに来たことも電話で話したことも無い、本部の青年部課長とやらのファックスに従わなければよかった」と後悔しました。

しかしその時は、まだ組織が未熟なためであり、総裁先生だけは私の気持ちをわかって下さるはずであると考えていたと思います。

その後、数年が経って、頻発されるようになった霊言の中で、幸福の科学の組織運営のあり方に批判的な意見を言う霊人の言葉を聞き、「そのとおり」と思ったこともありました。

ところがあるとき、いろいろなきっかけが重なることによって、この冷たいものが総合本部だけではなく、総裁本人から流れてきていると言うことを理解したのです。

総裁自身が会員の幸福に全く関心は無く、数字だけが大切で、会員がどんなつらい思いで活動しようがかまわない、目標必達だけが至上命題の、冷たい心を持つ人だったということを知るに至りました。

詳しいことはまたいずれ、頭の整理が進んでからお話ししようと思っています。

2014年11月3日月曜日

大川隆法の幼稚な性格が信者を不幸にしている

文部科学省から大学の認可が降りなかったようですね。

これを受け、幸福の科学からは「大学設置委員会スピリチュアルレポート」なる霊言本を出すそう。

目次を見る限り、また性懲りもなく審査会のメンバーの守護霊の暴言を載せてあるのでしょうね。


もう人のせいにするのは、やめてほしい。うまくいかない理由は自分にあるんじゃないのか。

それが「反省」の原点じゃなかったのでしょうか?

これじゃまるで、大学に受からなかったのは大学が悪い、文科省が悪い、世間が悪い、と言っている浪人生みたいだよ。


ほんとうに、みっともないです。


審査会からの是正意見が届いたとき、一つ一つの意見に対して真摯に、誠実に答えるということをしなかった大川。

それどころか、下村大臣の霊言を緊急出版し、暴言のオンパレード。

これじゃあ、文科省がOKを出さないのも当たり前じゃないか。

身から出たさびじゃないか。


こちらの意見や要望が通らなかったら急に怒り出し、「これが相手の本心です」と言って「暴言」を暴露する。

私はもう今は霊言をただの嘘だと気づいておりますが、もしそれが本当だったとしても、相手の本心を暴露するなんて非常に幼稚な手段じゃないでしょうか?

なぜなら、そんなことができるのは大川だけだからです。


こんなルール違反のやり方をするのが本当に仏陀なのですか?それが神様のやり方なのですか?


自分の意見に対して反発があるのは、相手なりの理由があるはずなのです。「魂の親」ならば、相手の守護霊に語らせて責任回避などせず、正々堂々と「幸福の科学大学創立者・大川隆法」の名前で意見を出してみなさいよ!

それをしようとしないで、信教の自由や言論の自由、学問の自由だけを振りかざすのは、子供が駄々をこねているのと同じですよ。


信者の皆さんも、早くこの人の幼稚さに気がついて欲しいです。